第五話 元服

――「平朝臣あそん宗盛、くだんの人をよろしく従五位下じゅごいのげじょすべし」

 私が「宗盛」の名を父から賜ったのは、保元の合戦の翌年、保元二(1157)年の十月、内裏だいり造営の功による平家一門への褒賞として、従五位下に叙せられた際のことである。それまでの清三郎という呼び名が、急に宗盛に変わって、当初は戸惑いを覚えたものだった。

 この頃父は、前年の戦での重盛、基盛の二人の兄の働きぶりを目の当たりにし、かなり末頼もしく思っていたようで、私などは眼中になかったようだ。特に重盛兄があの鎮西八郎に立ち向かおうとした時などは、肝を冷やしつつも、内心大いに喜んでいたようだ。

 一方母は、兄二人の活躍ぶりを、表面上では喜びつつも、内心では焦るばかりであった。そのこともあってか、母は一刻も早い私の元服を望んでいた。元服したからといって、父や兄のような働きができるわけもないのだが……。今となってはいじらしくもある、若い日の母の焦りである。

 ある日、母が幼い私を呼び止める。

「清三郎、これから父上のところへ元服のお願いにまいりますぞ!」

 いつになく強い調子だ。私はすっかり戸惑っている。

「げんぷく・・・とは何でございましょうか」

「清三郎が、父上や重盛の兄さまたちと同じような立派な大人の武士になることです」

「父上のような?」

 この頃の私には、全く想像がつかなかった。前年の合戦のように父や兄の出陣を見送ったことはあっても、自分がその一員に加わり、むくつけき武者どもの将となることなど、考えたこともなかった。

「母上、私は父上や兄上のようになどなりとうございませ・・・」

 正直な気持ちを告げただけだった。しかし言い終わる前に、母の右手がパシッ・・・と私の言葉を遮る。

「清三郎、そのようなこと、父上の前では絶対に申してはなりませんよ」

 こうなったら何を言っても無駄だ。私は悄然しょうぜんとして、父の元へ連れられて行った。母の平手打ちが存外強かったのか、私の口元には血が滲んでいた。父はその傷を、武芸の稽古でついたものと思いこみ、珍しく私を褒めた。母はそれに合わせてうまくごまかした。私は何も言わなかった。間違った理由で褒められるのは、正しい理由で叱られるより辛いものだ。

 母の必死の思いと、口元の傷の「ご利益」か、私の元服は父にあっさり認められたが、元服後に名乗る名前であるいみなは、なかなかすんなりと決まらなかった。

 諱には、色々と由来があるものだ。単に父親の名からとる者もあれば、偉大な先祖にちなむ者もある。例えば平家一門に共通する「盛」の字は、大元は「平将軍」平貞盛にさかのぼる。我ら一門は、曾祖父正盛の代から、この貞盛に肖り、「盛」を用いた諱を名乗っている。

 そして父の諱「清盛」は、亡き白河の院が、自らの寵姫を祖父忠盛へと下げ渡した後、父の誕生を知った院が、祖父へと贈った『なきすとたゞもりたてよすえに こともこそあれ』という歌が由来といわれている。

 もちろん父が白河院の血を引いているかどうか、今となっては確かめる術もない。しかしこの噂を父が大いに利用し、あの地位を築いたことを、疑う者はないだろう。

 母は最初、私の諱を「時盛」とするつもりだった。しかし母の一族ゆかりの「時」の文字が入った名前を、母の実家の影響が強すぎると思ったのであろうか、父はあまり気に入らなかった。気に入らないと思うと、露骨に顔や態度に出る父だ。このままでは元服自体が沙汰止みになりかねない。

 そんな保元二年初秋のある日、母は何を思ったか、祖母池禅尼いけのぜんにの邸宅である池殿いけどのへと私を連れて訪うこととなる。 

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