第九話 熊野へ

 保元四年が平治元年へと変わり、半年が過ぎた頃、父が熊野へ行くという話を耳にした。最初は父と数名の家人だけで、何かと忙しい師走の都を離れ、熊野で参詣方々、今後の平家の行く末についてじっくりと考えることが目的だったようだ。

 しかし、一行の列に重盛兄が加わったあたりから雲行きが変わり、重盛兄が行くなら私も!と基盛兄が手を挙げ、それに対抗するように母が例のごとく勝手に私を参加させるように話をつけてしまったのだ。

 熊野への道は本宮から新宮、那智大社まで、長く苦難も多いと聞く、それだけでもう憂鬱である。

「宗盛!早く準備をなさいっ!そなただけでも父上と熊野に同行するのです!」

 母のけたたましい声が、その思いをより一層強くさせる。

 時は平治元(1160)年十二月一日。三日後に迫った熊野への出立を前にして、私の心は、邸の水たまりと同じように凍り付いていた。

 

 元々平家と熊野のつながりは、白河院の御代にまでさかのぼる。元々熊野三山を熱心に信仰しておられた白河院のために、祖父忠盛が本殿を造営したのが、そもそもの始まりだという。

 父清盛も、祖父以上に熊野への信仰心は篤かった。そもそも父がそこまで熊野にのめりこんだのは、例の「出世魚」の話がきっかけだ。

 母や一門の人々はまるで昔の神話のように大げさに話しているが、実際はたまたま船に飛び込んだ魚を、父が手ずからさばいて振る舞ったところ、その魚が成長と共に名前を変えるすずきだった、というだけの話だ。

 確かにその後実際に父は順調に官途を登っていったが、何のことはない、父が白河院や鳥羽院の信認を得ていただけのことだ。

 

 行李には次々と荷物が運び込まれる。特に木工助家貞もくのすけいえさだはやたらと大荷物で忙しそうだ。寒い邸内にも関わらず、年甲斐もなく汗をかいている。私も、熊野などかかわりなく呑気に過ごす知盛や重衡に苛立ちながらも、父に付いて熊野へ行ったことのある家人から、しきたりや作法について話を聞いていた。

 その者によれば熊野では肉や魚はおろか、ニラやネギなど匂いのあるものを食べることができず、言葉遣いも慎まなければならないというのだ。例えば「仏」なら「サトリ」に、「血」ならば「アセ」などと言い換えるしきたりなのだ。多弁な母など絶対に耐えられまい、と一瞬思ったが、女性は熊野の参道に入ることすらかなわないのであった。

 

 熊野の独特なしきたりや、辛い道中を思ってすっかり気落ちしたまま、時間だけが過ぎてゆき、気づけば出発の日となっていた。

 平治元年十二月四日、忘れもしない旅路が、始まろうとしていた。

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