第九話 古寺の和尚

 雨戸の隙間から細い光が差して、朝を告げる。今日は少し肌寒い。布団の中で丸くなり冷えた指先に息を吹きかけても、あまり温まれなかった。


(昨日の事、サイラスさんに謝ろう……)


 わたしが家族を大切に――恋しく思っているからといって、感情的に言い返す事はなかったんだ。いつもみたいに軽く言い合って終わりにすればよかった。

 そうは言っても、後の祭りだけど。

 肺の中の空気を吐ききるように息を吐いて、身体を起こす。気合をいれるために「よし!」と声を出し、着替えと布団の片づけをさっさと済ませて、居間へと続く障子を開け放った。


「おはようござっ……いません」


 いつもならわたしより先に起きていて、文机の前に座っているサイラスさんの姿はなかった。黒檀の机には一枚の半紙と、見覚えのあるものより色鮮やかな緑色のスカーフが置いてある。


「えっと、飯の用意は不要。出かけるならばスカーフを忘れるな、か」


 達筆でちょっと解読しづらい書き置きを机に戻し、真新しいスカーフを手に取る。

 そういえばサイラスさんが、そろそろ対妖怪用の食欲減退効果が薄れるから、新しいものを用意しないといけない、って言っていたっけ。


「……なんでわたしは、サイラスさんを疑っちゃったんだろう」


 サイラスさんはこんなにも気を回してくれるのに。彼を信じず、感情にまかせて子供みたいにわめいて……自分が恥ずかしい。


(はるかさんにちゃんと伝えなきゃ。サイラスさんは悪い人じゃない、って!)


 思い立ったら居てもたってもいられなくて、新しいスカーフを巻いて家を飛び出た。



 途中で何度か迷子になりかけたものの、なんとか自力でお寺の麓まで辿り着けた。とはいえ、あちこち走り回ったせいで息は上がっている。階段下で待ち合わせにせず、前回同様、はるかさんと初めて会った川の傍で待ち合わせにしてもらえばよかったかも。方向音痴なのに見栄を張るべきじゃないな。


「はるかさんは……まだ来てないか」


 深呼吸しながら辺りを見回すも、長い石段にも周囲の森の中にも、はるかさんの姿はなかった。ちょっと早く来すぎたかな。この世界には時計がないから、約束がしづらくていけない。


(サイラスさんに関する誤解を解くにしても、どうやって話そう……)


 はるかさんもウキョウさんも、和尚さんの事を信じ切っていた。サイラスさんは悪い人じゃないんです、ってわたしが言えば、和尚さんの言を否定する事になってしまう。

 和尚さんが人を食べる、って噂に関してもそうだ。

 言うべきか、否か。言うにしても言い方を間違えれば、せっかく出来た知り合いを失う事になりかねない。

 どうすれば良いのかと悶々と悩んでいると、階段の上からざあっ! と強い風が吹き下ろして来て、思わず目を瞑った。


「か、髪の毛が……」


 気が急くあまりちゃんとかしていなかった髪が、ますますぐちゃぐちゃになる。人に会うのにこれでは恥ずかしすぎる。はるかさんが身だしなみのちゃんとした人だからなおさら。

 わたわたと手ぐしで髪を整えていると、正面から「夏海」と遠慮がちなウキョウさんの声がした。


「ウ、ウキョウさん!? おはようございます!」


 突然の登場に驚く。はばたきの音とか全然聞こえなかったけど、風の音で掻き消されたんだろうか。こういう現れ方をされるのは心臓に良くない。


「ああ……おはよう」


 微かに笑んでいるウキョウさんは、なんだか覇気がない。具合でも悪いんだろうか。


「大丈夫ですか? どこか痛いとか……」

「……夏海」

「はい」


 やっぱり今日のウキョウさんはなんか変だ。ウキョウさんとは昨日少し話しただけだけど、その時はもう少ししゃんとしてたと思う。


「申し訳ないが、一人で寺まで行ってくれないかな」


 ウキョウさんの腕がすっと上がって、階段の上――お寺の方を示す。その手首には、はるかさんと同じ赤い数珠があった。

 昨日は黒い翼とくちばしに目が行くあまり気が付かなかったけど、もしかしてお揃い? これはひょっとして……。


「夏海」

「あ、はいっ。一人で行くのは構わないですけど」

「オレはちょっと、行かなきゃならない所がある」

「そうなんですか? お気をつけていってらっしゃいませ」


 ひらひらと手を振るわたしに、眉を下げ困ったふうな……何とも言えなそうな表情を浮かべたウキョウさんも、「気をつけて」と言ってくれた。一体何に――あ、昨日階段で転びそうになったのをはるかさんから聞いたのかも。恥ずかしい。そんな事言わなくていいのに。

 はるかさんに会ったら文句を言わなければと思いつつ、大空へ飛び立ったウキョウさんを見送る。空を飛べるのって便利そうだなぁ。今度猫探し手伝ってください、ってお願いできないかな、なんて事を考えながら、長い長い石段を一人、慎重に上がって行った。



 山門をくぐって石畳の上を行くも、はるかさんの姿はない。これ以上勝手に入って良いものか。畑の方に行けば昨日会った人がいるかな?

 進む方向を変えようとした時、「キミが夏海君かね?」と妙に渋いおじさんの声がした。


「はい?」


 声のした方を振り返るも、誰もいない。上か下か……迷ったあと上を見たけど、やっぱり誰もいない。もしや透明人間!?


「下じゃ下。足元」

「足元……!」


 視線を下げると、灰色の石畳の上に黄色い毛玉がいた。大きさも丸さもバスケットボールそっくりなその生き物は、よく見ると糸のような目が二つと、小さなくちばしがある。

 同色でわかりづらいが、黄色い袈裟けさも着ているようだった。よりによって、何故その色を選んだんだ。


「……えっと、ヒヨコ?」

「いかにも」


 声には貫録があるし、頷く様は鷹揚おうようなんだけど……いかんせん見た目の可愛さが勝ってしまっている。


「はるかから話はきいておる。よく来たのう、ワシらは新しい家族として君を歓迎するぞ」

「あ、はい。ありがとうございます」


 もこもこのヒヨコを撫でまわしたい衝動と、勝手に動きそうになる手を抑え、何食わぬ顔で笑って見せた。初対面でそんなことをしたら、さすがに変態っぽい。


「ワシはこの寺の住職じゃ」

「わたしは、篠宮夏海です」

「うむ。ワシの事は気軽に”和尚さま”と呼んでくれ」


 住職さん、とか和尚さん、じゃダメなのかな。気にはなったけど、郷に入っては郷に従えって言うし。「和尚さま」と呼ぶと、ヒヨコが満足そうに胸を張った。

 わしゃわしゃ撫で回したい……!

 と、いけない、本来の目的を見失う所だった。

 それにしても、はるかさんから聞いていた和尚さま像とも、サイラスさんから聞いた和尚さん像とも違う。もっとちゃんとした妖怪、って言い方も変だけど、例えばぬらりひょんみたいな感じを想像していたから、予想外もいいところだ。


(でも、警戒するに越したことはないよね)


 目線を合わせるために屈みつつ、さりげなく丸々したヒヨコから距離を取る。


「はるかさんに会いたいんですけど、いらっしゃいますか?」

「すまないが、はるかは具合が悪いようでのう」

「え……は、はるかさん、大丈夫なんですか? 熱が出たとか、風邪を引いたとか」


 心配でわたわたするわたしに向かって、和尚さまは「大丈夫じゃ」と頷く。


「ウキョウが看病しておる。二人とも夏海を案内出来ない事を申し訳なく思っておったぞ」

「わたしの事は後回しで構わないです。はるかさん、早く良くなると良いですね」


 さっきウキョウさんが出かけて行ったのは、お医者さんを呼びにいったのかな。はるかさんが寝込んでいるから、ウキョウさんも元気がなかったんだろう。


「そうじゃな、はるかは気の利く良い子だったからのう」

「はい……?」


 小さな違和感を覚えて、胸に手をあてる。なんだろう、今何か引っかかったんだけど……。違和感の原因を探ろうとするものの、和尚さまに名前を呼ばれ、思考が途切れた。


「なんでしょう、和尚さま」

「ワシみたいなじじいが相手では楽しくないだろうが、茶でもどうかね? 美味い茶菓子もあるぞ」


 あの寺ではたびたび人間が消える、和尚が食っているという噂もある――サイラスさんはそう言っていた。

 小さくて可愛いヒヨコは人間に踏まれたらひとたまりもなさそうだし、他の妖怪に食べられてしまいそうだけど、本当に和尚さんが人間を食べるんだろうか。


(もしそうなら、はるかさんが危ない。具合が悪い時に狙われたら逃げられないだろうし)


 親切にしておいて油断した隙に襲う、というのは、あまり考えたくないけど。確かめてみない事には始まらない。


「――よろこんで、ご一緒させてもらいます」


 和尚さんに微笑むと、嬉しそうに数回頷いていた。見た目は文句なしに可愛いんだけどなぁ。人は見た目によらない、って言うし。

 ぴょんぴょんと跳ぶように先を行く和尚さんに続き、お寺に上がるため靴を脱ぐ。

 その時、誰かに呼ばれたような気がした。


(誰?)


 辺りを見回すと、畑の方――角になった廊下の影にウキョウさんが立っていて、悲しそうな顔でわたしを手招きしている。

 いつの間に帰って来たんだろう。どうしてそんな顔をしているの? 気になることが幾つもあって、ウキョウさんの方へ身体が動く。


「どうしたのかね、夏海」

「え、あ……その、お手洗い、貸して頂けませんか」


 とっさにそんな言葉が口をついた。別に隠すこともないはずなのに。なんとなく落ち着かなくてそわそわするわたしに、和尚さまは「そう遠慮せずともよいよい」と言って、畑の方から裏に回った場所にあると教えてくれた。


「ありがとうございます。すみません」

「ワシはすぐそこの部屋におる。後で上がっておいで」

「はい」


 和尚さまの小さな身体が障子の奥に消えて見えなくなるのを待って、ウキョウさんのもとへ小走りで向かう。


「ウキョウさん、お帰りなさ……あれ?」


 確かにここにいたはずなのに。どこに行ったんだろう? きょろきょろしていると、畑で農作業していた大きな生首――オトドさんに、「どぉしたぁ?」とくぐもったふうな声をかけられた。

 わたしの身長と変わらない巨大な頭は猫に丸飲みされた時のトラウマを思わせるけど、オトドさんははるかさんの家族だし、肉が苦手で野菜しか食べないらしいから安全だ。


「おはようございます、オトドさん。今ここにウキョウさんがいたと思ったんですけど」

「おはようぅ。ウキョウならぁ、付きっ切りではるかの世話ぁしてるだよぉ」

「そう、なんですか……どこかへ出かけたりは?」

「あいつぁ、はるかが大切らしいからなぁ。前にぃ、はるかが具合悪くした時もぉ、傍を離れようとしなかったしぃ」


 ぼよんぼよんと身体――というか頭全体を揺らしながら、オトドさんは笑う。


「そのうちぃ、あいつらぁ夫婦めおとになるんじゃぁねぇかなぁ」

「おお! やっぱり」


 あの赤い数珠はお揃いで、二人が良い仲なのも周知の事らしい。種族を越えた愛か……素敵だなぁ。どういう馴れ初めなんだろう。今度二人に聞いてみたい。


(でもそうなると、どうしてウキョウさんが麓やここにいたのか、ますます不思議だ)


 オトドさんにお礼を言って、お寺の裏にも回ってみる。

 杉の木と竹とが立ち並ぶ斜面に面したそこは、日当たりが悪く薄暗い。地面も所々苔むしていた。

 トイレらしき小屋と納屋の周りを歩いてみたけど、ウキョウさんの姿は見当たらない。


「んー……もしかして、キツネやタヌキに化かされた? でも階段の下では会話もしているし」


 もう少し山の方へ行ってみるか、踵を返すべきか――顎に手をあてて首をひねっていると、木々の合間でカラシ色の何かが動いた。


「あれは……」


 お寺の人たちは和尚さま以外、カラシ色の作務衣を着ている。誰か山の中にいるんだろうか。

 目を凝らすと、杉の木と竹の間を縫うように移動する、背中に翼を生やした人影が見えた。


「ウキョウさん!」


 やっぱり見間違いじゃなかったんだ。今度こそ直接本人に何をしているのか確かめようと、ウキョウさんを追って木立こだちのなかへ入る。

 朽ちかけの倒木や小枝、茶色くなった竹の落ち葉などを踏み越えながら、木の影に見え隠れするウキョウさんを見失わないよう進んで行く。けど、一向に距離が縮まらない。


(道が勝手に変わるみたいに、この森もいつの間にか迷路みたいに変わったりするんだろうか。一度入ったら出られないとか……)


 早くウキョウさんに追いつかなければ!

 怖くなって必死で駆けると、やがて開けた平らな場所に出た。切株がちらほら残るだけの丸い空間は黒い土がむき出しになっていて、使い古された熊手くまでがぽつんと放置されている。

 頭上の枝葉が減った分他の場所よりも光が届き明るいけど……空気は少し淀んでいる気がした。


「なんだろう、ここ?」

 

そろそろと足を踏み出すと、靴が浅く地面に沈んだ。見た目よりも柔らかい土らしい。他に足跡もないし、誰もここに立ち入ってないのかな?


「ギャア!」

「ひゃあぁ!?」


 不気味な鳴き声にびっくりして、頭を抱えその場にしゃがみこむ。しばらくして、遠くの方でバサ、バサ、と鳥が飛び立ったふうな音がした。


(も、もう大丈夫かな……)


 普通の鳥なのか怪鳥なのかわからないけど、見つからないに越した事はない。忙しなく拍動する心臓を押さえ、おずおずと立ち上がる。が、


「うわ!」


 盛り上がった土に足を取られ、躓いた。……周りに誰もいなくてよかった。四つん這いの情けない恰好を見られるのは恥ずかしい。

 早いところ立ち上がろうと膝に体重を移した時、目の前の土の中から赤いものが覗いているのに気付いた。


「なにこれ?」


 指先で土を避け、赤いものを引きだす。幾つもの珠が連なり、輪となった数珠――はるかさんやウキョウさんが手首に着けていたものだ。

 どうしてこんな所に数珠が? ウキョウさんがうっかり落としてしまったんだろうか。それにしては土を被り過ぎていたような……。

 なんか気になる。もう少し土を掘ってみようか。黒っぽい土を両手で掻き分けていくと、指先に何かが当たった。それを摘まんで目の前にかざしてみて……空恐ろしさが湧いてきた。


(なん……で、なんでこんなものが、ここに? それにこれ、血……?)


 土に塗れたカラシ色の作務衣には、所々赤い染みが出来ている。不安になるくらい鮮やかな赤を数えるたび、ど、どっ、と鼓動が早くなっていく。

 作務衣を握る指先に知らず力が入って、下ろした視線の先に茶色い髪の毛のようなものと、幾つかの白い塊を見つけてしまった時。一つの予感が頭を過り、堪えられない気持ち悪さが込み上げてきた。


「ぐっ、は……、げほっ……」


 顔を背け胃の中のものを吐きだしていると、涙が滲んできて……頬を滑り顎を伝い、土の上へ落ちて行った。

 埋まっていた赤い数珠、血に塗れた作務衣、はるかさんと同じ色の髪の毛――未だ土の下にある、たくさんの白い骨。信じがたい現実を前に、なんで、どうして……そんな言葉ばかりが頭の中を埋め尽くす。


「ぴよ」

「!!?」


 背後から聞こえた渋い声に振り返ると、そこには丸々としたヒヨコがいた。

 短い足で跳ねるように近づいてきたヒヨコ――このお寺の和尚さまは、安堵したふうに、ふぅ、と息を吐いた。


「なかなか帰ってこんから心配したぞ。森は危ない妖怪がいるから入ってはならん。寺のものたちから聞いておらんか?」

「お、しょう……さ……」

「さぁ、共に戻ろう。茶が冷めてしまうわい」


 和尚さまには、わたしが手にしている作務衣が見えていないんだろうか。

 去りかけの背中に声をかけようとして、黄色一色のなかに赤い染みを見つけてしまった。袈裟の端、一滴だけ飛んだような血痕――


「あなたが!」


 おぞましい想像が頭を駆け抜けて、えるように和尚を呼び止める。

 サイラスさんが言っていた噂は、本当だったの――?


「ん?」


 くるりと振り向いた和尚は無垢な子供みたいに目をしばたたかせ、小首をかしげた。


「あなたが、はるかさんを殺したの? それで……っ」


 たべてしまった――その言葉は、とても口に出来ない。


「そんな事はどうでも良いではないか」

「どうでも良くない!!」

「ふぅむ。仕方ないのぅ」


 短い羽根の先をくちばしに寄せた和尚の糸目が、ゆっくりと開かれる。たったそれだけで得体のしれないぞっとするような目つきになり、ひゅ、と喉が鳴った。

 そこには可愛さのかけらもない。まるで悪意が形を得たみたいだ。その姿に、和尚がはるかさんを害したのだと確信する。


「じきにシュウシュウ屋が骨を回収しに来る。話をするなら他でしようではないか」

「ふ、ざけないで!」


 地面に拳を振り落とすと、跳ねあがった黒い土が和尚のもとまで飛んだ。和尚は億劫そうに土を払う。

 その様がわたしの神経を逆なですると同時に、多大な後悔が胸に押し寄せてくる。

 昨日はるかさんと会う前に、サイラスさんにお寺に行くことを告げていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。和尚の危険性をはるかさんに教えて、無理やりにでもサイラスさんの家に連れてきていたら……自己嫌悪に、また吐き気が込み上げてくる。


「はるかさんは、あなたを尊敬していた。和尚さまたちのおかげで立ち直れたって、家族だって言っていたのに!」

「そうじゃのぅ。今までのものと比べて、は持ち直すまでだいぶ日をくった。だが最期にはこうして新たな獲物を連れてきてくれたのじゃから、飯を食わせ手をかけた甲斐があるというもの」

「……なに、を……」

「クスリ屋に人間夏海を取られた時は喰えんものと諦めていたからな。より若い食糧にくがあれば、古いものは用済みじゃ」


 厭らしい顔でそう言った和尚が、じゅる、と涎を啜る。恐怖よりも激高が先に立ち、噛みしめた奥歯がぎり、と音をたてた。


「最っ低……!」


 土を硬く握りしめ、和尚に投げつける。ひょいと軽く避けられたけど、激情のままに次々土を投げた。


「最初からはるかさんを騙していたのね! 親切なふりをして!」

「ひょ。当たり前じゃ、人間など食い物に過ぎん。人間とて甲斐甲斐しく育てた家畜を食うだろう」

「あんたなんかと一緒にしないで!!」


 止まらない悔し涙で声が上擦る。和尚の場合は愛情なんて微塵もない、ただ自分の欲を満たすためにもてあそんだだけだ。


(こんな奴に、はるかさんがっ……!)


 握りしめた土を振りかぶる。けど、顔の真横を黄色い塊が通り過ぎると同時に痛みを感じ、取り落とした。

 じん、と熱をもった頬に触れると、指先に血が――。


「っ!」


 振り返ろうとして、視界の端に黄色いものを捉えた。慌てて土の上に身体を伏せたけど髪の毛をひっかけられ、後頭部に鋭い痛みが走った。


「腹が満ちている時に上物を喰らうのは、もったいないんだがのう」


 和尚はわたしから奪った黒い髪をもそもそと噛み、足元に、ぺっ、と吐き出す。そこには、わたしの首にあるはずの緑色のスカーフもあった。


(いつの間に!?)


 とっさに首元に手をのばすも、柔らかい布の感触はない。サイラスさん曰く、食欲減退効果は絶対ではないらしいけど……スカーフがないとこころもとない。


「大人しくしていた方が長生きできるぞ?」


 ぶるりと身体を震わせた和尚はみるみる膨張し――大型トラックのタイヤくらい大きくなった。

 ニタァ、と笑う和尚の口内が露わになり、言いようのない悪寒が背中を駆けのぼる。だけど、はいそうですかと大人しくしていられるわけがない。


「あなただけは、ぜったい許さない!」


 素早く立ち上がって、武器になりそうなものを探す。


(あった!)


 少し右に行った所に、使い古された熊手が落ちていた。飛びつくように熊手を掴む間にも和尚に襲われ、むき出しのふくらはぎを巨大なくちばしが掠る。


「くっ!」


 思わず膝をつき、呻く。


「生きが良くて良いのう。だがもうちっと、肉がついていたほうが食いでぎゃ!?」


 近づいてきた和尚めがけ、熊手をフルスイングした。ヒットの衝撃がびりびりと腕に加わり、熊手からはミシ、と嫌な音がしたけど、そのまま振り抜く。

 丸々とした和尚の身体は二、三度バウンドし、土の上を転がる。すかさず追い打ちをかけようとして、つま先が何かを蹴った。


「……まさか、ウキョウさんまで!?」


 さっき見つけたものより一回り大きい赤い数珠が、土中から存在を主張している。その傍には濡羽色ぬればいろの羽根も何本か埋まっているようだ。

 早鐘のように鳴る心音を持て余しながら土を掻き分けると……くちばしの骨らしきものが出て来た。それを見た途端、体中の力が抜け、絶望にさいなまれる。


「遊びは仕舞いじゃ」

「っ!?」


 真正面から飛びかかって来た和尚に押し倒され、柔らかい土に頭を打つ。

 さっきわたしが見たウキョウさんは、何だったんだろう……狂気に染まる巨大なヒヨコを見上げながら、疑問の答えを求めたとき。和尚の目がわたしの右手――握りしめたままの赤い数珠を一瞥した。


「うぬぅ。も見つかってしまったか」

「それ……?」

「親に捨てられ死にかけておったのを拾ってやったというに、本気で人間なんぞに肩入れしおって。まったくとんだ親不孝ものじゃった」


 不快げに顔を歪めた和尚が吐き捨てる。それを聞いて、煮えたぎるような怒りが再燃した。


「ああぁぁあぁあぁ!!」


 力の限り和尚を突き飛ばした――はずが、わたしの両手は空を切る。

 和尚はその場で飛び跳ね上へ逃れていたらしく、くちばしを最大限に開き、わたし目がけて落ちて来た。

 鋭いくちばしがだんだんと迫ってくる様子が、いやにゆっくり感じられる。反射的に顔の前で腕をクロスさせ、硬く目をつぶり、肉を噛み千切られる痛みを思って歯を食いしばった。


「ぎゃふぅっ!?」


 どん! という体当たりでも受けたような衝撃音と、和尚のくぐもった悲鳴が聞こえた後、辺りは静かになった。

 覚悟していた痛みはいっこうに訪れない。

 恐る恐る目を開けた先――三メートルくらい離れた左前方には、輝かんばかりの美しい毛並みをした白い馬がいた。後ろからでよく見えないけど、白馬の前足の下では、元の大きさに戻ったヒヨコが白目をむいてぴくぴくと身体を痙攣させている。


「……うま」


 わたしの呟きが聞こえたのか、馬の長い尻尾が左右に揺れた。


(もしかして、助けてくれた……?)


 新雪みたいな綺麗な馬に手をのばす。だけど自分の手が震えている事に気付いてしまって……遅れてやって来た恐怖に、身体が動かなくなる。


「おらバカ女ぁああ! 手前どこにいやがる!!」

「ひぅっ!?」


 突然、山の中に怒号が響き渡った。聞き覚えのあるその声は、自警団団長のカイトのものだ。

 きょろきょろと辺りを見回して声の出所を探す間にも、森中の木々を揺さぶるようなガラの悪い大声は続いている。というか、増えている。他にも団員が来ているんだろう。


「こ、ここです……! ここにいます!」


 無視したら後が怖い。今出せる精一杯の声で応えると「あぁ!?」とドスのきいた返事が返って来た。


「聞こえねぇよ、もっと腹から声だせ!」

「聞こえてるじゃん!」


 思わずツッコミを入れたとき、杉の木々の間から極彩色の派手な着物と虎の毛皮をまとったオオカミ男が、ぬっ、と顔を出した。カイトの後ろからはいつぞや会ったカラスやツキノワグマ、一つ目のスキンヘッド妖怪たちが、ぞろぞろやって来る。

 今の聞かれていたかな、とか、どうしてここに自警団が、とか。気になる事はたくさんあるけど、とりあえず両手を上げて降参のポーズをとる。

 ふん、と鼻を鳴らしたカイトは泡を吹いている和尚を一瞥すると、十手の先端をわたしの目の前に突き付けた。


「手前がやったのか?」

「ち、ちがいます。わたしは……何も出来なかった」


 本当に、何も出来ていない。ぐっと手のひらを握ると、爪の間に入り込んだ土が食い込んで、痛んだ。


「まぁいい。それは後だ」


 がしがしと頭を掻いたカイトは団員達に辺りを調べるよう指示を出し、わたしの前に屈んだ。

 至近距離で冷たい灰色の目に見つめられ、緊張に背筋がのびる。


「和尚が人間を食ってシュウシュウ屋に骨を売っていた、っつうのは本当か」


 カイトの言葉が深く胸を抉る。声が詰まって……二、三度口を開閉した後、やっと返事が出来た。


「……はい。あとでシュウシュウ屋がくる、って、言っていました」

「じゃあ、その人間を庇った烏天狗も殺されて食われたってのは」

「っ……たぶん、本当です」

「だぶんかよ。まぁいい」


 舌打ちしたカイトは腰を上げるとき、わたしの腕をとって一緒に立たせた。そして荷物でも扱うように、傍にあった切株にわたしを放る。


「いてっ」


 尻もちをついて呻くも、カイトは知らん顔だ。自力では立てそうになかったから、ありがたくはあるけど……。


「団長! ありました!」


 あちこちで土を掘り返していた団員の一人から、声があがる。

 高く掲げられた手の先にあるカラスの足を見て、自分の顔が歪んで行くのがわかる。口を押えても指の隙間から嗚咽が漏れて、ぼろぼろと涙が出てきて……。

 団員たちが和尚の凶行の証拠を次々掘り出していく様子を視界から追い出し、膝をかかえてただただうずくまっていた。

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