第二話 いらないものを集めた歪なセカイ
「いい加減離せ」
しっかとしがみつくわたしを振り払うように、おじさんが腕を動かす。思いのほか強い力に負けたわたしは、べしゃりと地面に倒れ込んだ。
「いたた……。あれ?」
いつの間にか、建物が立ち並ぶ通りを抜けていたらしい。目の前には小さな植物園のような景色が広がっていた。
所々苔むした石畳が茅葺屋根の一軒家まで続き、その両脇――煉瓦や木で区切られ地面に、縁がギザギザしたシソの葉や、白い花を付けたドクダミなどが整然と並んでいる。家の近くには紫陽花やツツジ、椿の木などが植えられていて、それらに囲まれるようにひっそりと井戸もあった。
風が吹くと土や草花の匂いが、微かに香って来る。
(野菜っぽいのに混じって、食虫植物に似ているのとか、有毒生物みたいなどぎつい色の物があるんだけど……なんか微妙に動いている、ような……?)
物珍しさと怖いもの見たさから庭を眺めていると、古めかしい家の玄関へ向かっていたおじさんが、がらりと木戸を引き開けた。
「呆けてないで早く来い」
おじさんは戸の横で腕を組み、家の中を示すように顎をしゃくる。もしかしてここ、おじさんの家なんだろうか? 所々裂けてしまったスカートを払いつつおじさんのもとへ行くと、「遅い」と言わんばかりに睨まれた。けど、ふいにおじさんの口の端がつり上げられた。
「いくらでも謝ってくれるんだろう?」
「うえっ!?」
おじさんの表情は、良からぬ事を企てる悪役そのものだ。笑顔が怖い!
やっぱりまずい人に助けを求めてしまっただろうか。中に入ったら何か罠が? 後ろからぐさり? 悪い想像は尽きないけど、断ったら断ったでまた恐ろしい。
(ええい、女は度胸だ!)
無理やりおじさんを巻き込んでしまった事は、ちゃんと謝らなければいけないし。自分がしたことから逃げちゃだめだ。
「お、おじゃましまーす」
戦々恐々としながら敷居を跨ぎ、硬い土間を踏む。
外に比べて薄暗い家の中は、不思議な匂いがした。薄荷やバニラ、コショウ、お酒などが、うっすらと空気に混じっているみたいな。
二、三歩進むと、土間から三十センチくらい高い所が畳敷きになっていた。だいたい……十畳ちょっとかな? 真ん中に配された囲炉裏には鉄瓶が吊るしてある。 正面奥の障子の向こうにはもう一部屋ありそうだけど、衝立があって良く見えない。
(あ、こういう棚って薬屋さんっぽい)
たくさんの引き出しがついた背の高い棚が左の壁面を占めていて、その手前には黒檀の文机が置いてあった。反対側――右の方は暗くてはっきりとはわからないけど、
(それにしても、わたしは過去にタイムトラベルしてしまったんだろうか。それとも、どこか違う世界来てしまったとか?)
非現実的だと自分でも思うけど、街灯も電柱もない大昔ふうの町並みと、そこにひしめく妖怪の姿に、現実味を見いだせない。一体何がきっかけでここに来てしまったのか。雪駄を脱いで畳の上にあがるおじさんをぼんやり見つめながら考えていると、ふと既視感が過った。
あの時も、影の中に浮かび上がる金色を見て――
「おい」
「はいっ!?」
急に話しかけられて驚いたのもつかの間、目の前に何かが飛んで来て、二重にびっくりさせられた。
「うわ、わぁ!」
咄嗟に手をのばしたものの、慌てるあまり何度も弾いてしまう。それでますます焦ったけど、どうにかこうにか、土間に落下する手前で確保に成功した。
「これは?」
おじさんが投げてきたのは、丸い陶器の入れ物だった。大きさは手のひらに余るくらいで、球体まではいかないけど結構な厚みがある。蓋の部分には藍色の線で、植物の葉と茎とが描かれていた。
「使え」
「使うって、何にどうやってですか?」
羽織を脱いでいたおじさんは、億劫そうに視線を動かす。明るめの緑色の目が行き着いたのは、半袖のブラウスから覗くわたしの腕だった。そこには妖怪たちに襲われた時に出来たひっかき傷が、幾つも刻まれている。血は乾いてきているものの、傷口はまだ熱を持ったようにじくじくと痛んだ。
(…………っ)
欲に満ちた恐ろしい魑魅魍魎たちが我先にと手を伸ばしてくる光景が思い出されて、身体が震える。もう二度と、あんな恐怖は味わいたくない。
自分で自分を抱きしめ俯いていると、頭の上に何かが降ってきた。
「わ」
「外に井戸がある。傷口を洗ってから薬を塗れ」
不愛想にそう言ったおじさんは薬棚を背にして文机につくと、懐から包みを取り出し、色々な道具を用意していった。
(今度は何を投げられたんだろ?)
視界の隅で揺れる白いものを手繰り寄せる。それは、無地の手ぬぐいだった。薬だけじゃなくて、これも貸してくれるってことかな。おじさんは強面で眼光鋭いうえ、面倒くさそうに眉を寄せている事が多いけど、こうして気にかけてくれるのだから、人は見た目に寄らないっていうのは本当だと思う。
「ありがとうございます」
薬と手ぬぐいを胸に抱いて、頭を下げる。
「それから、無理やり巻き込んでしまってすみませんでした」
「全くだ」
重い溜息ののち、おじさんは「さっさと行け」と言って、何やら作業を始めたようだった。ごりごりと石を擦るような音が、一定のスピードで聞こえてくる。
「――はい」
おじさんに返事をして、家の外へ向かう。
良く分からない場所で会って間もない人を信用するのは、不用心かもしれないけど。おじさんの優しさが嬉しくて、こそばゆさに頬が緩む。冷えかけていた心に淡い温もりが灯ったような、そんな心地がした。
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「おじさんおじさんっ! なにこれ!!?」
家の中へ駆け戻ると、金色の髪を一つにまとめたおじさんに「埃を立てるな」と睨まれた。その目力はやっぱりすごくて、思わずたじろいでしまう。
「ご、ごめんなさい」
つま先立ちになって静かに、静かに土間の端まで行き、畳の上に身を乗り出す。
「この薬を塗ったとたん、傷がきれいさっぱり消えてしまったんですけど」
未だに信じられない思いで、元通りになった自分の腕をおじさんにかざして見せる。薬を塗った時ちくちくした刺激があって、沁みているのかな、と腕を見てみたらこれだ。足の傷も瞬時に治ってしまった。
「上がって来い」
わたしを一瞥したおじさんは、文机を挟んだ自分の向かいを示す。言われた通りの場所に正座すると、「腕を見せろ」と淡々と告げられた。
傷があった場所がよく見えるよう、部活で日に焼けた腕をおじさんに差し出す。おじさんは節の目立つごつごつした手でわたしの腕に触れながら、「違和感はないか?」「痒みは?」など、幾つか質問して来た。
「問題ないです。すごいですね、この薬。こんなに即効性のある薬、初めて見ました。おじさんが作ったんですか?」
「ああ。どうやら人間にも有効なようだな」
「……ん?」
”どうやら”? 人間”にも”?
ここは妖怪だらけみたいだから、薬屋であるおじさんが妖怪向けの薬を扱っているのは当然だ。ということは、さっきの薬は妖怪用? え、わたしが使って大丈夫なの!? わたわたするわたしと目を合わせたおじさんは、ふっと軽く笑った。
こっちの不安なんてお見通しでからかっているのかと、一瞬疑ってしまったけど……大丈夫だと笑いかけられたようにも、思えなくは、ないような? どちらにせよ、怖い顔が少し和らぐような笑い方だったし。好意的に捉えておこう。
「これ、ありがとうございました」
薬と手拭いを返すと、おじさんはそれを机横の籠に入れて、作業に戻る。舟形をした石の器のなかで、中央に棒を通した円盤が動かされるたび、ごりごりと何かが擦りつぶされる音がした。
(……てっきり用が済んだら出ていけ、って言われるかと思ったけど、これはチャンスなんだろうか)
注意深くおじさんを窺いながら、おずおずと切り出す。
「あの。迷惑ついでに、聞いてもいいですか?」
おじさんは一度わたしに目を向けただけで、何も言わない。何か黒い塊を器のなかに足して、作業を続けた。だめだと言われなかったということは、問題ないのだと受け取ろう。うん。
「ここは、どういう場所なんですか? わたしがいた所とは随分違うんですけど」
「……お前のいた世界で必要がないと認識されたものが、集められた場所だ」
「必要がないもの?」
漠然とした答えに首を傾げる。詳しく尋ねようとした所で、おじさんの方から説明してくれた。
「壊れて使えないもの。無駄なもの。一般的に悪や害とされるものや、憎いもの、気にくわないもの……。お前にも一つや二つくらいはあるだろう。『存在しなければいいのに』と思うものが」
淡々と語ったおじさんは、机の引き出しから薄い紙を取り出す。
「んー。テストとか、あとはゴキブリや蜘蛛はいらないと切に思います」
勉強はあまり得意じゃないし、暗闇で奴らを発見したときの恐ろしさといったらない。退治するか見逃すか、究極の選択を迫られる。できればどっちもしたくない。
「お前はさぞ、のうのうと暮らして来たんだろうな」
皮肉げに息を吐かれむっとする。確かにわたしは生活のほとんどを親に頼りっぱなしで、ろくに苦労はしていないけどさ。
「じゃあ、人生経験豊富そうなおじさんのいらないものって、なんですか?」
「……さぁな。ありすぎて覚えていない」
長めに間を開けたあと、おじさんは自嘲っぽく笑った。陰のある様子からは、なんだか踏み込んではいけない空気が感じられて、二の句を継げない。
「――言うなれば、ここは掃き溜めだ。いつからか妖怪が住みつき、町が生まれた。人間が迷い込む事は稀だが、ないわけではない」
伏せていた目を上げたおじさんが、じっとわたしを見つめてくる。なかなか反らされない視線に、落ち着かない心地になった。
「何か、ついてますか? わたしの顔に」
「お前には当てはまらないと思っただけだ」
「はぁ……」
何があてはまらないんだろう? 気にはなるけど、おじさんはもうわたしの方を見ていなかった。耳かきみたいな匙で黒い粉末を掬い、淡々と紙に移していく。
(とりあえずここは、異世界とか異空間とかだ、ってことか)
一つ疑問が消えたのはいいけれど、どうしてわたしがこの世界に紛れ込んでしまったのかは謎のままだ。何かきっかけがあったはずだけど……目が覚める前に、何があったっけ? いつも通り部活して、冬子と一緒に帰って……
「あー!!!」
思わず大声を出したわたしを、おじさんが迷惑そうに睨む。
「そうだ、神社のお祭り! おじさん、あの時拝殿の影にいましたよね? わたしと目が合いましたよね!?」
「知らん」
「即答!?」
「俺は”外”へは出ない」
「でも……」
食い下がるも、おじさんは「知らない」の一点張りだった。確かにあの時はだいぶ距離があったし、はっきりと顔を見たわけじゃない。柔らかそうな金色の髪は同じに見えるけど……それだけじゃ確証にはならない。
(同じ人だったら、あわよくば『おじさんにも原因があるかもしれないから、ここに置いて下さい』って言えたのに――なんて、図々し過ぎるか)
溜息交じりに自嘲して、違う質問をする。
「それじゃあ、猫知りませんか? 頭と手足が黒くて、背中とお腹は白い、バクみたいな柄の」
「……猫、だと」
ダメもとで聞いてみたのに、思わぬ反応があった。
「知っているんですか!?」
「お前が見たものと同じかはわからないが」
「わたし、巨大化した猫にがぶっと食べられて、気が付いたらここにいたんです。だからもう一度猫に食べられたら、戻れるんじゃないか、って思うんですけど」
期待を込めて言葉を待つも、おじさんの顔は険しい。
「あの、おじさん?」
「お前の面倒は俺が見よう」
「え?」
急な話題転換についていけず、首をひねる。
「その猫が原因なら、俺も無関係ではない。何故お前を食ったのか、今どこにいるのかまでは与り知らないが、この町のどこかにいるはずだ。時折ここにも顔を出す」
「それじゃあやっぱり、猫を見つければ帰れるんですね!」
「知らん。自分で確かめろ」
相変わらずおじさんは素っ気ない。でも今は、ちっとも気にならなかった。
わたしは絶対帰らなきゃいけない。元いた世界で行方不明扱いされていたら、両親や友達、部活の仲間に心配や迷惑をかけてしまっているだろうし。みんなにまた会いたい。
「おじさん」
勢いよく立ち上がって、深く頭を下げる。
「ありがとうございます! 不束ものですが、よろしくお願いします。掃除とか洗濯とか、出来る事はなんでもしますので!」
「端から期待していない。せいぜい大人しくしていてくれ」
「ひどっ!」
そんなに冷たく言い捨てなくてもいいのに。
「お言葉ですけど、わたしだって家事くらい出来るんですからね」
腰に手を当て不満を露わにするわたしに、おじさんは家の隅――台所らしき場所を指し示す。
「竈を使えるのか?」
「か、かまど!?」
薄闇の中に目を凝らすと、土で出来た竈やお釜が見えた。傍には薪も積んである。
「…………」
そういえばさっき使った井戸にポンプはなく、四苦八苦しながら水を汲んだっけ。町では電線も見なかったし、家の裏にプロパンガスのボンベもなかった。もしかして、火を起こす所からしなきゃいけない……とか?
だらだらと嫌な汗を流すわたしを上目に見るおじさんは、挑発的な笑みを絶やさない。……良い性格したおじさんめ!
「頑張って覚えます、ので。使い方を教えて下さい」
「家を燃やすなよ」
「そこまで間抜けじゃないですからっ」
心外だと訴えても、おじさんは片手間に流すばかりで取り合ってくれなかった。
おじさんの性格や強面にはちょっと難があるし、猫とおじさんにどういう関係があって、わたしの面倒を見てくれるのかは不透明だけど。とりあえず、右も左もわからない妖怪だらけの世界で居場所を得られた事は、願ってもない幸運だ。
「そういえば、まだ名乗っていなかったですね。わたしは篠宮夏海と言います」
「篠宮?」
「夏海でいいですよ。おじさんの事は何て呼べばいいですか?」
「サイラス」
「ではサイラスさん。改めてよろしくお願いします!」
サイラスさんににっこり笑いかけてみたけど、案の定「ああ」の一言で片づけられてしまった。これから上手くやっていけるだろうか。早くもちょっと不安になる。
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