Epilogue

プシュケの接吻

《2009年4月18日 11:30AM 首都カイネスベルク 経済技術庁長官公邸》


 広壮な公邸の敷地内に一歩足を踏み入れると、草木の香りで溢れんばかりだ。みずみずしい春の息吹に、彼は思わず頬をゆるめた。



 セキュリティチェックを通過して、その若者は公邸の敷地内へと踏み入った。

 二十歳前後の若者だ。軽やかな足運びで、彼は中庭を駆け抜けていく。


 バラの香りが甘やかだ。膝もとに茂るバラの垣根に、何頭もの立羽蝶がひらひらと舞っていた。

 やわらかな春の風。栗色の髪が風にそよいだ。その心地よさに思わずほほえむ。


 彼の肩には、手のひらサイズのロボットがひとつ乗っている。ジャガイモみたいな真ん丸頭に、グリーンピースに似た目玉。骨董品アンティークの玩具のような味わいの、旧式ロボットだ。無表情だが可愛らしいそのロボットは、振り落とされないように、しっかりと若者の肩にしがみついている。


 ――早く行こう。早く会いたい。


 琥珀色の大きな瞳を輝かせ、その若者は屋敷に向かって駆けていた。

 走る道すがら、若者は庭掃除をしていた旧式の亜ヒト型ロボットとすれ違った。


「やぁSULLAスラ、久しぶり!」


 明るく声をかけて走り抜けると、亜ヒト型ロボットのIII-08-29-SULLAスラは半球状の頭を軽く傾斜した。まるで、彼にあいさつを返したようだった。



 ここは、経済技術庁長官が住まう公邸だ。

 若者は屋敷の扉を開け放ち、我がもの顔で踏みこんだ。見知った様子で絨毯張りの廊下を進み、階段を上って執務室へと歩いていく。

 春光のように柔らかなクラシックの調べが、執務室から響いていた。


「シュルツ!」


 勢いよく扉を開け放ち、若者は中の人物に声をかけた。


「来てやったぞ、シュルツ!」

 執務机で書類の束に目を通していた人物が、若者の声に応じて顔を上げた。


 銀色の髪と、冬空のように淡い色調の青瞳。年齢は、三十代も後半と言ったところだろうか。端正な面立ちはとても知的な印象だ。


「あぁ。お前か」

 その人物は品の良い挙措で立ち上がった。グレーのスーツに包んだ長身をすらりと伸ばし、若者に向けてこう言った。


「よくぞ来てくれた……とでも、一応言っておこうか? クリス」

 ロベルト・シュルツの口元には、淡い笑みが浮かんでいた。


 壁のカレンダーに目をやったシュルツは、訪ねてきた若者――クリス・メグレーに尋ねた。


「しかし、クリス。今日は帰る日だろう。寄り道をしている暇があるのか?」

「あぁ。飛行機の時間まで、まだあと少しあるから」


 クリスはおととし海外に渡り、今はその国の法科大学に籍を置いている。つかの間の春期休暇を利用して、今日までこの国に戻ってきていた。


 腕時計で時間を確認しているクリスに、シュルツは“分かりきっている質問”をした。

「――それで? お前の要件は何だ?」

 クリスは呆れたように肩をすくめた。


「聞かなくたって分かってるだろ。早く案内しろよ、僕は忙しいんだから」

「相変わらず図々しい子供だな、お前は。成人したなら、目上に対する口のきき方くらい覚えたほうが身の為だぞ? 私は政府の要人だ」


 シュルツは腕を組み、軽くクリスを睨みつける。それでもクリスは、どこ吹く風だ。

 シュルツはため息をついていた。


「少し待っていろ。今から来客があるんだ」

「客? 仕事か?」

 クリスが首を傾げると、ロベルト・シュルツはニヤリと笑って答えた。

「あぁ。来月に控えたC/Feシー・フィ融和推進会議の、打ち合わせのようなものだ。当局の局長閣下が、そろそろここに来る」


 局長閣下。わざとらしく敬称を添えたのは、シュルツなりの嫌味であった。

「へぇ。局長ねぇ……」

 クリスはそれを適当に聞き流し、眉を寄せて黙り込んでしまった。


 しばし口をつぐんでいたクリスは、経済技術庁長官ロベルト・シュルツを見つめて言った。

「――シュルツ。お前の“計画”、いよいよだな」

 琥珀色の瞳には、緊張の色が浮かんでいる。


 シュルツはうなずき、言葉を継いだ。

「あぁ。C/Fe融和推進会議はもうじきだ。C《人間》とFe《ロボット》との協調社会に手が届く……あと一歩でな」


 C/Fe融和推進会議――それは、人間とロボットとの協調的労働を推進するための討議会だ。


 二十四年前、この国で、まったく同じ名前の討議会が行われたことがあった。しかしその最中にヒューマノイドが起こしたとされる自爆事件が発生し、討議会は中断。その事件は、世界で唯一の『ロボットが人間を殺した事件』として、人々の記憶に長くとどまることとなった。その事件は、C/Fe事件と呼ばれていた。


 C/Fe融和推進会議を再び実現させることは、経済技術庁長官ロベルト・シュルツの悲願であった。


「……私はそこで、自分の為すべきことをしよう」


 青い瞳に決意を込めてつぶやくシュルツを、クリスは不安げに見つめていた。

「シュルツ。……暗殺とか、されるなよ?」


 反ロボット主義の勢力はいまだに存在している。それを思うと、クリスは顔を曇らせずにはいられなかった。

 だがシュルツにとって、クリスの態度は予想外であったらしい。


「驚いた。…………まさか、お前に心配される日が来るとは思わなかったな」


 シュルツが心底意外そうな顔をしていると、

「はぁ? 馬ッ鹿、誰がお前の心配なんかするかよ! マリアのために決まってるだろ!?」


 整った顔をこれ以上ないくらい不愉快そうに歪めて、クリスは声を荒げた。

 クリスはふて腐れた顔でシュルツを睨んでいたが、


「……シュルツが死んだら、マリアが悲しむ」


 ため息のように、ぽつりとつぶやいた。

 春の温かな空気が、ふたりの沈黙をそっと包み込んでいた。


「暗殺、か」

 沈黙をふと断ち切って、シュルツはつぶやき、扉に向かって歩き出した。部屋の外に、客が到着したと気づいたからだ。

「案ずるなクリス。その程度の危険は、折りこみ済みだ」


 一歩。一歩。ゆっくり歩いて、シュルツはわざと扉の向こうに聞こえるような、大きな声でこう言った。

「去年新たに当局局長に就任した人物は、私の古い“友人”なんだ。……奴は、とても“有能”な男でな。“安心”して、身辺警護をゆだねておける」


 “友人”と“有能”と“安心”にどこか嫌味な響きを込めて。ロベルト・シュルツは扉を大きく開け放った。


「……わざとらしいンだよ。相変わらず嫌味な野郎だな」


 扉の向こうに立っていたのは、黒い肌の大男――ブラジウス・ベイカーだ。

 ダークスーツを着込んだ巨躯が、部屋の中へと入ってくる。


「ったく、冗談じゃねぇよ。なんでテメェみたいなひ弱な奴を守ってやらなきゃならねぇんだ! だいたいテメェが経済技術庁の長官トップってのが異常だぜ。この国の未来が不安で仕方ねぇ」


「国の行く末を案ずる気持ちは私も同じだ。君のような思慮浅い人間に、国家の治安を託して良いものなのだろうか」


 まるで時候の挨拶のように、滑らかな口調で互いに毒を吐き続ける。両者にとっては、これが日常茶飯事だ。

 クリスとベイカーをふり返り、シュルツは涼しい顔で笑っていた。


「さて、これで客がそろった。――案内しよう。マリアも、君たちに会いたいはずだ」




 クリスとベイカーが案内されたのは、南に面した小さな部屋だ。紗幕のような薄紅色のカーテンがかかる窓から、淡い春光が射しこんでいる。部屋にはひとつ寝台ベッドが置かれていて、その上には一人の女性が横たわっていた。


 ――IV-11-01-MARIAだ。


「マリア……!」

 クリスの顔には、優しい笑みが浮かんでいた。穏やかな足取りで寝台に近寄り、彼女の手をそっと取る。

 彼女の手は冷たい。

 そして彼女はぴくりとも動かない。

 呼吸もしない。拍動もない。まるで……死んでいるようでもあった。

 けれどマリアの表情は、穏やかでとても幸せそうだ。長いまつげを伏せ、柔らかそうなくちびるをかすかに微笑ませたまま横たわっている。

 そんな彼女を覗き込み、クリスは静かにつぶやいた。


「……ほんとに、良い夢でも見てるみたいだ」


 ロベルト・シュルツはうなずいた。

「あぁ。マリアは、眠っているんだ」





 十年前。一九九八年十二月二二日。IV-11-01-MARIAは機能停止に陥った。

 死は“機能停止”の一種である。

 しかし機能停止は、死と必ずしも同義ではない。

 『IV-11-01-MARIAは死亡した』――それは公的な事実である。

 本当のことを知っているのは、シュルツとほんの一握りの人間だけだ。


  * * *


《回想――1998年12月22日 3:00AM 州都ヴェマラキア 当局本庁舎:屋上》


「……やめろ、マリア」


 十年前のあの日。

 自ら命を絶とうとしたIV-11-01-MARIAは。シュルツから拳銃を奪い取り、自身に向けて引き金を引いた。


「さよなら」


 だが発せられた銃弾は、彼女を穿たなかった。

 マリアが引き金を引くより早く、シュルツは彼女に飛びかかっていた。押し倒されたマリアの胸から銃口が逸れ、弾は虚空に放たれた。


 乾いて響く、拳銃の音。

 呆然として、マリアはシュルツを見上げていた。

「…………ドク、ター?」

 マリアは、自分の体に異変を感じていた。手足の指先から、体がじわじわ冷たくなっていく。


 マリアに覆い被さって、シュルツは彼女を見下ろしていた。

 シュルツの左手は、彼女の背中にしっかりと回されていた。


「ドクター……なにを……したの?」


 マリアには、自分の身に何が起きたか分からなかった。全身が重くなり、感覚がじわりじわりと鈍化していく。瞳に映るシュルツの顔も、少しずつもやがかっていった。


「君は眠るんだ。死ぬのではなく。しばしの間、眠る」


 シュルツが彼女の背中に回した左手は、彼女の内部――体の深い場所にある“心臓”へと突き込まれていた。背中の開口部から“心臓”へと手を差し入れて、調圧弁バルブ操作で疑似血液の凍結処置を施したのだ。


 凍結処置。それはすなわち仮死状態にロボットを導くための方法である。かつてマリアに話して聞かせた仮死化の手法。シュルツはそれを、マリアの体に施した。

 聴覚の衰え始めた彼女の耳でも聞こえるように、シュルツは自分の唇を彼女の耳元へと寄せた。


「君が絶望せずに生きられる世界を作ろう。その世界では、人間とロボットは友として、手に手を取って生きるんだ。……もう、君が仲間の死に怯える必要はない。人間の横暴に憤る必要もない。そんな世界が来る日まで、少しの間だけ……君に、眠っていてほしい」


 他の誰にも聞こえぬ声で。彼女にだけは聞こえるように。ロベルト・シュルツはそう言った。

 マリアは微睡まどろみに似た顔をして、重いくちびるを動かした。


「そんな世界……ほんとに、来ますか……?」

「来るとも。私が作る」


 シュルツは笑った。不器用な、とても優しいほほえみだった。

 すでにマリアの瞳には、シュルツの笑顔は映らない。それでも彼女には、シュルツが笑っているのだと分かった。

 冷たくなった体の、真ん中。マリアの心の中だけは、いつまでも熱を失わなかった。


「あなたらしくない。ほんとに、……あなたらしくないです」

 マリアは、泣きながら笑っていた。

「ありがとう。ドクター」

 穏やかな笑顔を浮かべながら、MARIAは永い眠りについた。



  * * *


 あれから、十年の月日が過ぎた。


「今思えば――」

 窓から入った春風に銀色の髪を遊ばせて、ロベルト・シュルツはつぶやいた。


「トマス先生は、すべてを見越した上で私にマリアを託したのかもしれないな」


 かつてマリアは、人間とロボットの溝に絶望して三原則逸脱を繰り返し、波及性灼血で周囲のロボットへ死を振りまいた。

 そんなマリアが、三原則逸脱を起こさず生きていける世界――ロボットと人間の間に溝がない世界。それこそが、トマス先生が求めていた世界ではないか。


 経済技術庁長官という職に就いたロベルト・シュルツは、C《人間》とFe《ロボット》の協調社会の実現に力を注いでいた。結果的には、トマス先生の遺志を継いだ形になる。


「だとすれば、私はいまだに先生の思惑通りに踊らされているということになる。まったく、私はどこまで間抜けなのだろう」


 口ではそんなふうに言いながらも、シュルツはどこか嬉しそうだ。

 眠るマリアの頬に触れ、シュルツは静かに目を閉じた。


 ――マリア。君に教えたい真実ことがある。

 君に告げたい。

 早く告げたい。

 マリアが再び目覚めたら、真っ先に教えてやりたいことがあった。

 

 君の“父親”アドルフ・エレットと。娘のマリア・エレットは。実在したんだ。

 

 マリアが永い眠りについたあと、シュルツは再び古都クレハに赴いた。エレット父娘おやこが実在したということを、シュルツはそのとき知ったのだ。


 ふたりとも、先の大戦で命を落としていた。……彼らは、トマス・アドラーの養父と婚約者であった。


 IV-11-01-MARIAは、紛れもなく“形見ロボットメメントイド”だったのだ。トマス先生は、愛する女性の記憶をたどってIV-11-01-MARIAを製造した。

 愛しい女性ひとの追憶を。果たしてトマス先生は、復讐の道具などとして利用するだろうか?

「……トマス先生の胸のうちは、もはや誰にも分からないがな」

 先生の笑顔を思い出しながら。ロベルト・シュルツはつぶやいていた。


 ――人は誰しも、自分の見たいように見て、自分の理解したいように理解する。だがそれは、信じたいものを、己の信じるままに信じ続ける権利があるということだ。


 だからシュルツは、トマス先生を信じることにした。


 シュルツと、クリスと、ベイカーは。それぞれに想いのこもった眼差しで、眠るマリアを見下ろしていた。春の空気に包まれた、穏やかな沈黙だった。

 初めに動き出したのは、クリス・メグレーだ。


「僕は……そろそろ行くよ。飛行機の時間があるから」


 シュルツに対して発言したわけではない。クリスはマリアに告げたのだ。別れを惜しむかのように、クリスはそっと、彼女の頬にキスをした。

「じゃあ、また来るね。マリア」

 そう言いながら、挑発的な笑みを浮かべてクリスはシュルツを睨んでいた。これが彼なりの宣戦布告だ。


 クリスが去ったのち。“経済技術庁長官”と“当局局長”は、いくつか仕事の打ち合わせをした。来月に控えたC/Fe融和推進会議の段取りで、何点か確認すべきことがあったのだ。

 ひとしきり話し合った後。

「まぁ任せとけ。お前は安心して、自分の“計画”とやらをやり遂げてみな」

 ベイカーはそうつぶやいた。


「なぁ、マリア。目を覚ましたら今度こそ、俺とクレハで過ごそうぜ? 今度は誰にも、邪魔させねぇから」

 ベイカーはマリアの白い手の甲に、唇を寄せてから帰っていった。



 クリスとベイカーが去って。シュルツはひとり、部屋に残ってマリアを見つめていた。

「マリア……」

 穏やかに、シュルツは彼女の名を呼んだ。


 眠るマリアは、答えない。

 シュルツは自分の手のひらを、開いてそっと目を落とした。ロベルト・シュルツの手のひらは、カフスボタンを握っていた。


 留め具が弾けて壊れてしまった、あのボタン。

 シュルツの髪と同じ色をした、羽ばたく蝶をあしらったあの銀細工だ。


 シュルツはそれを、マリアの手に握らせた。


「君はいま、どんな夢を見ているんだ?」


 開け放った窓の外から、ひらりひらりと二頭の立羽蝶が舞い込んできた。

 目覚めの春に、さなぎから出て生まれ変わった彼らは、精いっぱいの命を謳歌しているかのようだ。舞い遊ぶ二頭を目で追いかけるうち、シュルツは窓の外にもたくさんの蝶が舞っていることに気がついた。花吹雪のように、たくさんの命が空に舞っている。


 君の愛したあの映画にも、こんな場面シーンがあった気がする。

「初めて出会ったあの日のように、君はいまもあの歌を歌っているのだろうか?」

 夢の中で。君は笑って、今もあの歌を歌っているのだろうか?


 ――君を。忘れじ。愛しき君を。


 シュルツはそれを口ずさもうとして。しかし小さく首を振った。

 マリアの声が聞きたかった。

 今すぐにでも、目覚めさせたい。そう思ったことは一度や二度ではない。

 だが、まだ早い。

 目覚めさせる前に、マリアが脅かされずに生きられる世界を用意しておいてやりたいのだ。


 ――君は道具でも奴隷でもない。


「君が目覚める世界では、CシーFeフィとが手に手を取って、一つの未来を目指すんだ」


 ささやいて、シュルツは彼女の脇にひざまずいた。

 マリアは眠る。さなぎのごとく。目覚めるその日を待っている。

 シュルツは、そっと微笑んだ。


「だから。もう少しだけ、君に待っていてほしい」


 目覚めの日を待つマリアに触れて。

 シュルツはそっと、唇を重ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君を忘れじ 【検死官×三原則×恋愛:古典SF風】 越智屋ノマ@魔狼騎士2重版 @ocha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ