昨日、私の誕生日でした。
そしてそれは、今までで最悪の誕生日でした。
「人と人とは理解し合えないということ」、これが私にとって最も大きなテーマだと痛感しました。
とても苦しい。
他者との差異による衝突と摩擦。
私だけではなく、多くの人が絶えず差異による衝突と摩擦を繰り返しています。
背後には、他者に対する期待や欲望があります。
期待があれば、必ず裏切りもあります
恨みや憎しみが生まれます。
差異による不寛容や無理解は、叶えられることのなかった期待や欲望から起こるものです。
不都合でありながら必然的かつ不可避な衝突に、困惑し、悩み、苦しむものかと思います。
心に生じる自らの憎悪を乗り越え、寛容であれ。
何の見返りを期待せず、ただ人を愛せ。
そんな博愛主義的な考えが念頭に去来します。
ですが、欲望や期待のない愛は、本質的に無意味です。
だからこそ、なお苦しく思う。
苦しみの元凶であるはずの差異を、寛容ですべて包み込んでしまった瞬間、差異が均一化されて、意味を失う。
私が私であること、君が君であること、あなたがあなたであることの、その意味がたちまち消えるのです。
つまり、愛と差異は両立しない。
自分が自分であることと他者が他者であるその本質であるはずの差異こそが苦しみを生み出しているという不条理、それを乗り越えるための唯一の手段でありそうな愛や寛容はかえって人から意味を奪う不条理、それらを思うと、歩くべき道に一条の光すら感じられません。
それで、……私にどうしろというのでしょうか?
そう、そうですよ。
そんなの決まっています。
書くしかない。
そして理解したい、してもらいたいなら、話すしかない。
すれ違って摩擦が生まれて衝突して傷ついても、苦しくても悲しくても、耐え難くても、自分が自分であると同時に他者と理解し合い触れ合いたいのであれば、対話し続けるしかない。
自己完結する欲望からは得られないような喜びが、そこにはあるから。
読む喜び。
書く喜び。
わかった、わかってもらえた、わかりあえたと、一瞬でもそう思える喜び。
結局、私が本当に書きたいと望むもの、期待するもの、欲するものは、「人と人とは理解し合える」ということなのです。
「理解し合えなさ」と「理解し合えるかも」は同じ線上に乗っていて、しかもとても近いところにある。
「理解し合えなさ」を前提にしているからこそ、近づけたと思えたときに、特別な感動があるのだと思います。
というわけで、「理解し合えなさ」の苦しみをどうにかこうにか一歩だけでも光の方へと近付くために、重たい足を前に進めます。
書く、前にまずは対話をします。
話さなければならない人がいるので。
とりあえず、話してきます。