マルク・デュガンの『透明性』という小説を読んでいます。
以前読んで、読み直そうとずっと思ってそのままにしていた作品です。
読み途中ですが、とても印象的な文章がありました。
以下、引用です。
"
たしかにほんの一握りではあるが一部の人々が、大手配信業者とそのプラットフォームが提供するフィクションに飽きているようだ。そういう映画や連続ドラマはみな、大衆の好みを調べたデータをもとに作られているから、観客の望むものをよく心得た科学的商業的アプローチであって——この点を強調したいが——不確かなものが入る余地がない。ビデオゲームや連続ドラマに失望させられることはない。そこで、リサーチされた大衆の期待に沿って書かれていない、当たり外れのある小説に戻ろうという考えを持つ者たちが出てきたのだ。がっかりさせられる小説は多い。それはリスクだ。主題が完璧に読者の関心とずれていたりする。しかし良いものに当たると、互いに知らない二人の人間の間に生まれる親密さという意味で、奇跡的に小説は芸術作品として蘇る。
"
(この引用部の前提として、小説がほとんど読まれることがなくなった未来が描かれている、ということを付け加えておきます。)
小説が単なる娯楽の領域を出る瞬間というのは、それが誰にとっても面白いものではなくなる瞬間と同じなのかもしれません。
私の関心を強く置くところと共通したなにかが描かれた小説は、私にとって、単なる娯楽ではありえません。
それは私にとって生きるうえで特別な経験であり、かけがえのない生きる糧、身体の一部となるものなのです。
ですがそれは、エンターテイメントとして優れている必要はありません。
上記の『透明性』においては、映画やドラマなどの映像作品はつねに膨大なフィードバックデータによってより人々が求める作品へと生まれ変わっていく、という前提があります。
誰にとっても面白い作品があり得るのかはわかりませんが、既に現代のテレビドラマなどは、常にフィードバックデータによってプロットやストーリーを修正しながら作成されています。
でも、小説は絶対にそうはならない。
連載小説であれば多少はフィードバックによる影響を受けるかもしれませんが、基本的には完成したものとして世に出ることのほうが多いと思います。
なおかつ、文章は読んだ人によって読み方が大きく変わってきます。解釈というのが、とても重要な役割を持つのです。
もちろん映像作品にも解釈の幅というものがありますが、言語ほど感じ方や解釈が多様になることはないのではないでしょうか。
となれば、もしかしたら小説だけが創作物として面白くないことがあらかじめ許されるのかもしれません(いや、そんなわけはありませんけどね……)。
私にとってたいていの場合、みんなにとって面白い作品は面白くないのです。
いえ、面白いのですけどね、それはいつでも見れる、読める、鑑賞できると思ってしまう。
他の作品との差異が見出せないし、それがそれである必然性が微塵も感じられない。
となれば、私が真に面白いと思う作品は必然的に、誰もが面白いと思う作品以外、ということになります。ややこしい。
私は、多くの人が好きだという作品も好きです。
私は、私だけがその作品の魅力に気づける、と思える作品も好きです。
私は、私にとって意味不明かつ不可解な作品も好きです。
私はたいていの作品が好きなのです。
強いていうならば、欲望のままに書かれたような作品には、なんとなくつまらなく感じてしまう気がします……。作者が作品とまったく距離が置けていないようなものは、創作に対する誠実さが欠けているというか……。(と言いながら、我ながら誠実さとはなんぞやと考えさせられますが)
小説は面白くないことが許されるのです。
それでも、やはり面白いものが書きたいのです。
とはいえ、誰にとっても面白いものを目指しているのではないのです。
そこそこ面白くて、そのなかの一部の人に深くささる。それが私にとっての最高の作品なのかなとか……。わかりませんが。
私の作品が、知らない誰かにとって大切なものになるには、やはり多くの人に読んでいただくのが近道なのですよね……。
わかっているんです。わかっているからこそ、「面白い」ということから逃げてはいけない。簡単ではありませんが。
出発からここに至るまで、結局終着点が見出せないまま書いてきました。
はい、結論はありません、ごめんなさい。
作品更新しました。
それが言いたかっただけなのに、長くなってしまいました……。
最近、こんなんばっか。
以下、更新作品です。
『名のない人々』
https://kakuyomu.jp/works/16816700426633383705/episodes/16817139558223145192