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内藤礼「生まれておいで 生きておいで」

東京国立博物館の内藤礼の展示に行ってきました。

やっぱり良い。

正直、この間の西洋美術館の展示はあまり印象に残っていないです、

というのも、参加した作家が多すぎて、見るのにエネルギーを使いすぎて、

一つひとつに対して集中できなかったからです。

それに対し、東京国立博物館の展示は内藤礼のみ。

というより、内藤礼と東博コラボ作品(?)なので、

時間をたっぷりと使えた上、没頭できました。

(しかも平日で人も少なかった!)


展示は三部屋のみ。

一つ目は奥の建物(平成館企画展示室)、二つ目が本館一階の中央の部屋、三つ目が本館の一階ラウンジでした。

インスタレーションの面白さのひとつは、

鑑賞者が作品内部に取り込まれることだと、関わることだと思います。


一つ目の展示室では、

鑑賞者とはガラスで隔てられた内藤礼の作品や古い粘土片(?)と、

鑑賞者側にある吊るされたガラスのビーズや風船が展示されていました。

鑑賞者がそこを歩くたびに、また、空調の風が吹くたびに、

それらはゆっくりと風に揺れていました。

ですが、ガラスの向こう側の作品群が動かされることはない。

今現在にある生と、生き終わったものとの対比。

そして部屋の中程にある二つの風船。

寄り添うように並んでいるのに、たがいに風で揺れているのに、

触れ合うことは決してない距離に保たれていました。

二つの生。近いのに、絶対に触れない生。

そして、こっそりと控えめに配置された、いくつかの鏡。

鑑賞者が動き、覗き込むことで、そこに生が映し出される。

そういうひとつひとつに気づくたびに、

胸がどきんと緊張するような気がしました。

今、私は、生きている。

それを思い出す瞬間は多くないです。

呼吸していることを普段意識しないように、

心臓が脈打っていることを普段意識しないように、

でも、それは確実に生まれてから今という瞬間まで続いてきて、

そしていつか終わるものなのだと。


二つ目の展示室の中央には木の板が敷かれ、

そこに座れるようになっていました。

そこに座った鑑賞者は「生きているもの」として作品の一部になります。

その光景がとてもシュールで面白い。

実際に座っている人がいて、おもわず笑みがこぼれました。

ああ、あの人、生きてるじゃん。って、思いました。


また、自然光の差す部屋で展示されているため、

おそらく、時間帯によって見え方が大きく変わるのではないかと。

となれば、違う時間にも行ってみたいかも……。




なんというか、こういう展示はたまらんのです。

どうしようもない気持ちになります。

嬉しさとか、怖さとか、悲しさとか、

そういうのが溢れ出しそうになります。


これはなんだろうか、と思って、

ふと仕事中に考えてて、気づきました。

あ、これ、小さい頃の感覚に近いのだ、と。


子供にとっては世界のありとあらゆることが新しいです。

その新しさを、大人になるにつれて次第に感じにくくなります。

ですが、世界は常にうつろっていて、

本当はなにもかもが変化の只中にあるはずなのです。

それを、私たちの脳が日常の瑣末な変化として排除してしまっている。

そこには私たちが心を躍らせる不思議が隠されているかもしれないというのに。



でも、内藤礼の展示によって、

そこに閉ざされていた扉が一時的に開かれたような気がします。

すべてが新しいこと、変化を続けていること、

同じものなどなにひとつとしてないこと、

そうした中で生きる私がいつか終わってしまうこと。

そこは、言葉や思考だけではどうしたって行くことのできない場所です。


だから、

それが感じられるのがどうしようもなく嬉しくって、

怖くて、寂しくて、悲しくて、

でもやっぱり楽しくなってしまうのだろうと思います。




また、来週か再来週くらいに行こうかな。

何度か行った方がいい展示だと思ったので。

少なくとも、私の感覚に深く響く。


豊島美術館が好きな人には特におすすめ。

豊島まではなかなか行けんしね。

上野なら、関東圏の人は気軽に行けるだろうしね。うん。

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