私は、私が生きていることの意味がわかりません。
それは今に始まったことではなく、
おそらく、物心ついた頃からずっと続いていることで、
いまだにそうしたざわざわした心が落ち着くことがありません。
ですが、多くの人は真面目にそのようなことを考えることがないようです。
たとえ話してみても、小学生か中学生で"そういうの"は卒業したといわれます。
で、卒業した人たちはどこで生きているのでしょうか。
確固たる意味の中で生きているのでしょうか。
あるいは、意味への問いを捨てただけで、ただ漫然と続き日々を、
昨日と明日とをつなぐためだけに今日を生きているのでしょうか。
それが、私には不思議でならないのです。
人は自らの意味を確信して生きれるものなのか。
人は自らの意味への問いに完全に無関心でいられるものなのか。
人は自らの意味への問いを不可知であると自らを納得させることができるものなのか。
言葉にしないだけで、それぞれがそれぞれのうちに問いを秘めて、
日々苦悩しているものなのかもしれません。
もしかしたら、そうしたことを平然と問うてみることは、
幼稚な行為だと見なされるのかもしれません。
だからあえて、多くの人は卒業してしまうのでしょう。
私は今、私の生の意味を書くことにおいています。(というわりには書いてませんが……
でも、それはあくまで暫定的です。(だからこそ、わからないともいえます。
そして生きることそのものが、ありとあらゆる面で暫定的に過ぎません。
友人や恋人、家族とともに過ごす喜びも、
趣味に興じる楽しみも、
日々に感じる人間関係の摩擦による苦痛も、
なにもかもが過ぎ去っていくこと、
それが私を不安にさせます。
定まらなさ、寄る辺なさ、私という存在の不明瞭さ、所在なさ。
一見すると意味らしいそれらは、
とどまることなく流れ去っていく無常。
その最果てにある死。
そんなことばかりが、私の頭のなかでぐるぐると終わりなく回り続けています。
ここのところ、とても迷走しています。
書く手が止まり、読む一方になり、
生活リズムが変わってとても健康にはなったものの、
死のこと、生きる意味のこと、そして私が意味のない存在だったのだとして人生が終わることへの確信、
そうしたものがおもしになって、
静かに私を圧迫して苦しめているように思います。
でも、本当にすごく健康なんです。
ストレスも少ないし、
肉体的にも元気出し、
寝るのにはかなり時間がかかるものの、
一度寝付けばきちんと朝まで眠れるし。
なのに絶えず誰かが問う。
「で、お前が生きている意味は?」
と。
徹底的に、自分の時間を書くことに投入してみたら、
見える景色は変わるものでしょうか。
私は、書くための力を得るのには、
どうしたって読むしかないとも思っています。
カミュの『ペスト』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、
リルケの『マルテの手記』、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』と、
私を芯から揺さぶる作品は数多あり、
それは間違いなく、私の意味への欲求をいくらか満たしてくれるものであり、
また、ヒントにもなっています。
そしてまた、生きるしかない、生活を送っていくしかない、
とも思っています。
日常に見出す小さな喜びや悲しみにもまた、
生を肯定的にとらえるための力がたくさん宿っています。
それを、ひとつひとつ丁寧にひろいあつめて、言葉に閉じ込めて、
小説や詩にできたなら、
わずかばかりでも光が見えてくるのではないかと思うのです。
とまあ、ずっと書いていないせいで、
自分のなかにあるものをうまく言葉にできませんね……。
いえ、違います。
本当は以前からそうなのですよね、知っています。
心に渦巻いている重くて黒いものに名前をつけようと、
物語を与えようとしているのだけれど、
それらはずっと、私の無闇な試みを拒み続けているのです。
そして、これが私が書かなければならないことであり、
きっと他の誰かが、どこかで書こうとしていることでもあると思っています。
そのために。
やっぱり生きにゃならん。
生きる力を、しっかりと自分の足で立つ力を。
独力で見つめ、考え、書き起こしていかなければらなん。
なによりも誠実に。