夏の残り香

 下駄箱のうえの花瓶は、もう長いあいだ花がさされぬままそこに置かれている。男はすぐ横のキーを取り、家を出た。


「え、五回以上デートしてるのに、手も繋いでないってなにそれ?」


「ああ、そういう相手なんだよ」


 高校の制服が、ようやくからだにぴったりと会うようになった頃、初めて彼女ができた。

 大切にしようと思った。子供じみた考えではあったけど、子供は子供なりに誠実であろうとしたのだと、大人になった今では思う。相手もまた、自分に対して誠実だった。関係はうまく行っているように見えた。高校卒業とともに遠距離になり、自然と連絡を取らず、関係は終わった。


 平日の国道は空いていた。


 ――前の青い車の行き先もきっと同じだ。


 空を反射してるからあんなに青いのだろうか。そんな幼稚な疑問が浮かんできたのは、となりの女のせいだと思った。

 三十手前にして、二年ぶりのデートだった。好き、というにはまだ気持ちは強くなかったし、かといって、チャンスを逃す気にもならなかった。可能性があるなら、とりあえず成り行きに任せてみるのも良い。

 窓を開けると、潮の匂いがかすかにする気がした。


「あとはこの道、まっすぐいくだけ」


「そうなんだ。道、詳しいんだね」


 ――詳しいも何も、まっすぐに行くだけなんだって。


 分岐点のない道で、どうやったら迷えるというのだろうか。迷う。迷うという言葉に、自分はどれほどの理解があるのか。

 悩むことなら何度もしてきた。したことより、しなかったことの後悔が強く残ると聞いたことがある。男にとっては悩みの一部ではあっても、迷いの一部ではなかった気がする。どうせ一直線の道なのだ。いくつもある曲がり角をバックミラー越しに見ながら、それは海には続いていないのだと、自分を納得させようとした。

 男はふと隣を見た。

 同世代のはずの女が、年端もいかぬ少女に思えてくる。信号待ちの間、その様子を横目で見ていた。

 お菓子をこぼして、ハッと気づいて、まあいっかと手ではたいてから顔をあげてこちらを見る。レンタカーだから男も気にしない。無邪気さを演出しているのか、それとも純粋にそのままそうなのか。

 猜疑心に苛まれるのが癖になるほど疑心暗鬼も堂に入り、いつしか、諦めとともに人を信じ始めていた。まるで馬鹿げている。人を信じる理由を、疑うのに疲れたからだと宣う愚か者が他にいるだろうか。

 男はなぜか、昔付き合った同級生の話を、隣の女にしたくなった。


「ふーん、そっか。で、どうして返信しないの?」


 男にも理由はわからない。

 目の前の女に申し訳なく感じるわけではなかった。まだ関係が始まってもいないし、相手もそのつもりだからこそ、気にもとめない様子なのだろう。

 潮の香りが濃くなっていくのがわかる。

 海が近づくにつれて、遠い記憶が近づいてくるのがわかる。故郷の香り。遠い昔へおのれをいざなう香りなのだ。そして、かつて少女だった彼女からのメールが、ますます強い意味をもって男にせまってくるのだ。

 返事をせずにそのままにしておいたメールを見た。

 どうして急に連絡して来たのだろうか。返事をする気にはなれなかった。なのに、何度も繰り返しメールを読み返している。


「未練ってんじゃないけどさ、遠くの記憶ってきれいに見えるもんだよね」


「ああ、……なるほど」


 好きな場所なのに、展望台には一度も登ったことがなかった。遠くが見たくて高い所にのぼるなら、自分の足でのぼりたい。若いころにそんなことを思っていたのに、不思議と、エレベーターも悪くないような気がした。隣にいる女のせいだろうか。

 高くのぼっていく。今までよりもはるかに広大な視界が飛び込んでくる。

 あいにく天気が悪く、海に浮かぶサーファーの姿をとらえただけで、他に特に見るべきものもない。

 季節が行きつ戻りつする空だけが、男の心をとらえた。秋が近い。過去が後悔として空を曇らせていく。遠くはぼやけて、船影があわい灰青の空と海に溶けている。

 漁だろうか。この汚い海でなにが獲れるのだろうか。懐かしい、遠くの景色を思い出しながら、ふと、隣の女を見た。


「さあ、どうしてだろう。でも、返信するにはもう遅すぎる気がするけどね」


 女は男に肩をよせ、スマホを覗き込んで文面を確認してから笑った。


「なんだ、こんなことか。ちょっと、スマホ貸して。私が返信してあげるから」


 女は男からスマホを取り上げた。

 帰りもまた、一直線の道をまっすぐに走るのだろうか。女の肩に届かないくらいの微妙な長さの髪から、夏の残り香のような、ほのかに甘酸っぱいにおいがした。

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