ありふれたできごとときみと
「とくに、珍しいことではなくなります」
淡々と答える男の口調に、女は冷たさを感じないわけではなかった。だが、単に冷淡な響きだとは思えなかったからこそ食い下がったのだ。
「と、言いますと。死に慣れてしまうということでしょうか」
レコーダーに落としていた視線を上げると、男の瞳を正面から見据えた。学会の第一人者であり、世界的にも注目されている研究者の一人として、さすがに男の胆は据わっている。一ミリも視線を逸らさず、誠実な瞳で女をつらぬくように見た。
「そういう言い方は相応しくないと思います。大切な人を百人亡くしたって、人は死に慣れることなどはないんです。そうではなく、私が申しあげているのは、人はいつか必ず死ぬということです」
人が死を乗り越える日が訪れるかもしれない。情報を一律管理し、膨大なデータから最適解を導き出すためのシステムが構築されつつある。
患者の了承を得てカルテの記録は電子化され、全国の病院と共有のデータベースにすべて記録されている。現在の医療で救えない命は多く、それを救うためのデータベースには、数字や言葉に書き変えられた無数の人生がおさまっている。正確かつ膨大な記録だ。ヘルストラッカーの情報も含まれている。人は人の記録をかつてないほど常時集積できるようになったのだ。次のフェイズはそれを活用することにある。
女は、未来の可能性について話しているのを、どこかはぐらかされているような気がした。
明確に、質問の意図を伝える必要があった。
「でも、それも変わるかもしれない——」
と、そこまで言うと、女の言葉を遮るように男は言う。
「そうですね。そうですけど、ずっと先のことでしょう。それに、既に失われた命は数えきれないほどありますから」
男の言葉の意味が女には解せなかった。単なるインタビュアーに過ぎない。男の真の心の内を理解するには遠すぎる。
だが、一研究者としての意見なら引き出せるはずだ。
女は自身の志すジャーナリズム故に、男から話を聞き出そうとしているのではなかった。
自分自身の未来に対する興味と好奇心の一つとして、切実に聞いてみたいと願っていた。
女とて、大切な人を失ったことがないわけでもない。その苦しみだって、嫌というほど知っているのだ。
「過程ですが。もし人の死がありふれたものではなくなったら、医療従事者というのは、それに反比例して増すであろう重圧に、はたして耐えられるものでしょうか」
「……さあ。私にはわかりません」
男ははじめて視線を逸らした。窓の外を歩く患者の姿を見ていた。男の患者だろうか、助かる見込みのない人だろうか、死を目の前にしてもなお生きようとする命だろうか。女は想像をめぐらすが、男の考えるところはわかりそうにはなかった。
週末の映画館は混雑していた。
医学生でありながらも奮発したのは、はじめて愛した女性だからというだけでなく、自分にとって最後の女性になるだろうと確信していたからだ。若いがゆえの思い込みなどではなく、男は実際その女と結婚し、一度だって浮気などしなかった。チャンスがなかったわけではない。する必要も意味も感じなかったからだ。良き妻がいて、なぜ男が浮気などするものか。単なる生物としての子孫を増やそうとする本能に従うには、男はあまりに理知的過ぎたのだ。同時に妻も、それをよく理解し、愛していた。
通常の映画の三倍近い値段。学生だった彼からすれば、四倍以上だった。
その二十五年後、娘の誕生日を同じ場所で祝うとは思わなかった。——いや、思わなかったといっては嘘になるだろう。ずっと娘と、こうして過ごすことを願っていたのだ。
「パパにとっては、ママもたくさんのデータのひとつに過ぎないんでしょう」
傷つけるために使われる言葉には、冷たさより、はるかに鋭い熱を感じた。
妻の死を受け入れるには、時間がかかり過ぎたかもしれないと思う。
ラウンジで注文したシャンパンは、ほとんど炭酸が抜けていた。鼻を抜けるかすかな甘みが、目の前の娘が十分に成長し、少女から、いつのまにかひとりの大人になっていることを知らしめる。男はそこに妻の面影を重ねる。
黄金色の泡がぱちぱち弾けながら、その一粒ひとつぶに過去の記憶が隠されているような気がする。
遠くて触れられない。それでいて大切なもの。
「私はね、これからも生き続けるの。きっとパパよりも長く。パパがいつか死ぬことだって知ってる。だからね、許してあげる。ママの代わりに私が」
妻によく似た声は、妻からはとうてい語られることのない言葉だった。男は懐かしさとともに、寂しさを感じた。子供は、いつのまにか自分から遠い存在になってしまうのだ。それでも、愛おしいことには違いない。
『味の良いものは、炭酸が抜けても味わい方があるってものよ』
他人を否定することを嫌った。優しく包み込むように許容し、受け入れた。もしかしたら、娘もどこか妻と似たところがあるのかもしれない。
駆けまわる子供や、耳障りな高い声をあげる女子高生もいない。映画を楽しむにはこのうえない環境なのに、そこに見いだすのは、駆けまわる娘の姿やしかりつける妻の高い声ばかりだった。
静かすぎると、沈黙のなかにあまりに多くの音を聞いてしまう。懐かしい記憶までもがなんとなく恨めしく思えたりもする。
蓄積だ。と男は思う。
蓄積したものこそが未来を作り出す。単なるデータではない。男は生きた。男の妻も生きた。これから、目の前にいる娘も生きていく。そこにあるのは悲しみだけではない。
「わかりませんが、今ですら医療従事者がその重圧に十分に耐えられていると言えるのかどうか、それすら疑問です。私たちが喪失を乗り越えたなどと、いつになったら言えるものでしょうか」
男は一瞬だけ眉を顰め、悲痛な表情を浮かべたように見えた。国内の研究における第一人者の彼がそんな表情も持つこと自体、女には意外に思えた。
驚きながらも、ここで質問をやめるわけにはいかない。他者の死について、生が永続する可能性について、病気のない世界においてもまだ死が存在しうることについて、いくらでも聞きたいことはあるのだ。
「先生は、既に死は耐え難いものだとお考えだということですか?」
女はさらに問うた。
「あなたにとっては、大切な誰かの死は、耐え難いものではないのですか?」
男は問いに対し、問いで返した。握りしめたこぶしがかすかにふるえていた。そうだ。誰もがそうなのだ、と女は思った。女には答えるべき言葉も、かけるべき言葉も、見つかりそうになかった。
「珍しくないからと言って、それが人を苦しめないわけではないのですよ」
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