勝敗の行方

「終わっちゃった」


 蝉時雨が鳴り止んだ瞬間、沈黙を埋めるようにつぶやいた。黄昏時にぴったりの、哀愁のこもった声だった。


 ――違う、仕方なかったんだ。


 男には舅のやりかたが性に合わなかった。利益のために道徳を犠牲にする。考えは理解できないものではないが、外部に生じる損失があまりに大きい。誰かの不幸の上になりたつ利益など、意味があるのだろうか。

 舅であればおそらくこういうだろう。「そういうことは稼げるようになってから言え」と。

 利益が先か、倫理が先か。視点が違うだけで、目指しているものは同じだったのかもしれない。それでも、手段と目的の順序を間違えては、たどり着いた結果に意味がなくなってしまうではないか。


 ――くそが。


「でも、ゼロからなら、あなたのやりたいことができるかもよ」


 排煙が問題視される前から経営は傾いていた。

 男は、妻の言葉に素直にうんと頷けない。現状を理解していた。帳簿は舅の死の前から把握していたし、銀行との取引も難しい状況だ。ゼロではない、マイナスからのスタートになる。

 男は、自分が求めるものも、舅が求めるものも、どちらも手にすることができなかった。


 ——敗者。


 男の脳裏を言葉がよぎる。


「トーナメントだから。負けたらそこで終わりだぞ」


 舅にいわれた言葉だ。あの時はまだ、ただのコーチだった。


「僕はリーグ戦のほうが好きだな。多くの試合のなかで、本当の実力はその方がわかると思うし」


 負けたら終わり。少年だった男は、幼い頃からそれを知っていた。だから、負けても巻き返せるリーグ戦の方が良いといったのだ。




 小学校のサッカークラブの、引退をかけた最後の大会。青い芝のにおいが男の鼻先に触れる。

 クリアしたボールがディフェンスラインの裏に抜けた。少年だった男はその日、不思議と足が軽かった。普段は土のグラウンドで練習する小学生たちにとっては、芝は重い。スパイクだって、芝用など持っていない。単に芝との相性が良かったのか、誰よりも速く走れる気がした。

 キーパーが前に出たが、それよりも速くボールに足が届くと、あとはゴールに流し込むだけ。簡単にゴールを決めた。

 後半十五分。二対〇。勝負はついた。残り時間五分で二点差なら間違いないだろう。男の追加点で、試合は決まったはずだった。


「こういう言葉を知ってるか。『強いチームが勝つんじゃない。勝ったチームが強いんだ』って」


 ――じゃあ、勝つためなら、なにをしたっていいって言うのかよ。


 鈍色の雲が垂れこめ、予報外れの雨が芝を濡らした。

 チームを鼓舞しようと、相手チームのキャプテンが声をあげる。それに呼応し、ところどころ声があがる。駅前の大きな木に集まるムクドリのように喧しい。毎年夏になるとどこからか集まっては、大量の糞を残してどこかへ去っていく。あのムクドリのように——。

 相手の右サイドハーフがひとりかわすと、遠くからシュートを放った。少年は、その距離では入らない、と思った。


 ――だけど。


 ふわっと緩やかな放物線を描いたボールがゴール前に飛んでいく。その緩やかな軌道では、とうていゴールを奪うことはできないはずだった。

 ボールはキーパーの手前でバウンドすると、濡れた芝を滑り、急激に速度を増し、軌道が変化した。

 今であればよくわかる。雨の降った芝のうえではボールは水平方向に滑って、垂直方向の速度が吸収されてしまう。

 キーパーの股の下をすり抜け、ボールはネットを揺らした。フィールドの外から、ワッと親たちの声が届いた。

 残り時間、二分。たった二分だけ、守り切れば良いだけだったのに、どうしてそれができなかったのだろうか。

 雨脚が強くなる。残り一分。ボールを奪うと、左サイドからカットインして右足でシュートを放つ。相手のキーパーは目測を誤らず、手前でバウンドしたボールをキャッチした。逆サイドの選手が手をあげた。キーパーは低い軌道でスローする。芝の上を滑ったとしても、低い軌道であれば影響が少ない。

 良い判断だった。サイドハーフに渡ったボールは、高い位置に残っていたフォワードの選手へとつながり、センターサークルの端あたりで味方のディフェンダーと一対一になった。相手のフォワードがディフェンスをかわした。

 まだ追いつかれるだけ、そう思う味方はひとりもいなかった。



「サッカーで二点ってのは、一番危うい点差なんだよ。勝った、なんて思ったのなら尚更だ。慢心は油断を生み、油断はチームを驚くほど弱くするもんだ」


 同級生と飲めば必ず、引退試合の話となる。残り五分で追加点を決めたのは男だった。勝利への確信が、敗戦を生んだ。ならばそのきっかけは、男のゴールだったということになる。

 コーチであった舅が言い出したことだった。


「だから、お前があのゴールを決めてなかったら、おれたちの引退ももう少し遅くなったかもしれないんだ」


 負けたのは自分のせいか。戦い方が悪かったのか。弱かったのか。わからない。それでも人生は終わらないのだ。

 だから男は、リーグ戦の方が好きだった。

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