擦り傷くらいで泣かないで

「湖の近くに家を建てようよ」


「いいね。夏にはボートを出してさ、釣りとかして」


「ああ、そうそう。糸を垂らして、餌もつけずにね」


 凍った湖のように波ひとつ立たず、ただ一度、遠くに鳥の声を聞いた。ここを訪れるのは初めてではない。小学校の頃のサッカークラブの合宿地がこのあたりだった。

 空の色のことで喧嘩したチームメイトと仲直りしたのが五年の夏休み。十歳だった。

 あれから二十年以上が経っていた。

 男は信じられなかった。時間はいたずらに過ぎていく。そんな簡単なことは、もう自覚していい年齢だとは思う。それでもまだ、近くにあると思いたかった。愛情と呼ぶべきなのか、あるいは恋だったのかもよくわからない記憶。過去とのあらゆる結びつきが不可避的に引き連れてくるのが、いつだって彼女だった。

 朝露で濡れた木の葉からしずくが落ち、鼻を打った。水は巡る。この湖の水も、すべてを飲み込んでしまった海の水も、同じだ。男のからだを通過して、彼女のからだを通過して、なにもかもを貫き通して一繋ぎにしてしまうのだ。


 ――海の近くは怖かったから? でも、それも意味がなかったのかな。


 女の斜め下に視線を逃すような苦笑いや、無邪気に喜んだ時の目尻のしわ。どうでもいい、具体的な詳細ばかりが思い出される。恋愛、家族、言葉で書き表すことのできないなにか。それがただ、大切だったのだ。




「桜。紫陽花。ハゴロモジャスミン。金木犀。椿。梅。ずっとそんなものばかり愛でている。私が人間を好きになれないのって、やっぱりおかしいかな」


 笑う彼女は花のようだと思った。声は風のように静かで、誰の邪魔をすることもない。はじめから、そこにはいなかったかのかと錯覚するくらいまでに。薄く、淡く、でも、確かに甘い香りがする。


「なにそれ、なにかの比喩? 彼女は可憐で、美しい、花のようだ。みたいな」


 友人に話してみたところ、まるで伝わらない様子だった。男には伝える意思が欠けていた。伝わらなくてもいいと思っていた。だが、伝わらないのはそのせいだけでもない。

 友人、という関係では不足したなにかが、彼女との間にはあったのだ。


「うーん。可憐だとか美しいってんで花にたとえたんじゃなくってさ、時間とか空間とか、そういうのが同時にいくつも重なる人だと思ったんだよ。花みたいにさ。そのなかにたくさんの可能性が見える気がするんだ。彼女だけじゃなくって、自分自身の可能性がさ」


「ふーん。よくわかんね。まあ、お前がそれで良いなら、俺も良いと思うけど」


 なにげない友人の言葉に背中を押されたのか、男は女との関係を一歩進めることを決意した。

 恋愛ではない。恋人ではない。家族でも友人でもない。時々肉体を重ねることはあっても、互いの欲望を満たすための純粋な交わり。虚しくならないのは、恋人ではないからだ。心が通じ合わないという意味で、心が通じ合っている。不思議な距離感だった。


「ねえ、僕のこと好きにならなくてもいいからさ。一緒にいるのってどうかな?」


「ハハ。変なの。おかしいのは君も同じってことね。……うん、いいよ。私もそれに賛成。私たちだけの関係」


 実家に帰るから、一緒に来て欲しい。そう言われ、男はうんと頷いた。誰もいない実家。それを実家と呼ぶべきなのか、男にはわからなかった。


「なにもないね」


 殺風景なコンクリートの基礎が点々と見られる景色に、男は思わずそんな言葉を口にした。配慮がなかったのと同じ理由で、まるで悪意はなかった。

 女はしばらく、ほとんど誰も通らない、気配もない街全体を見回した。遮るもののなにひとつない広く空間では、青い空だけがただ広かった。


「なにもなくない。なにもないのは、全部綺麗にかたづけちゃったからだよ」


 むき出しになった布基礎の隙間から、長く伸びた雑草が顔をだす。両隣と斜向かいにはない。一週間もすれば伸びてしまうはずだ。住んではなくても、まだ誰かがそこに生き続けている証拠だった。

 高台の新たな街には過去がない、と彼女は言った。男には今になって、その言葉の意味が少しわかる。


「ここの道路でね、お父さんとお兄ちゃんに自転車の乗り方おしえてもらったの」


 本当は見えないはずの海が見える。本当は見えないはずの少女が見える。補助輪なしで、兄と父のあいだを行き来する。転ぶ。泣く。なにもなくない、なにもなくない。

 耳の奥になにかが住みついたみたいに何度も同じ言葉が繰り返された。なにもなくない。ここにはたしかにあったのだ。名前も知らない。かたちもわからない。ふれられない。目に見えない。そんなふうに言葉にすると陳腐でくだらなくてつまらなくなってしまう、そういうなにかが、ここにはたしかに——。




 遠くから車の音が聞こえる。朝はまだ寒く、遠くの音が届くのだ。靴と靴下を脱いで、足先で湖面に触れた。


 ――ただ一緒にいるだけでよかったのに。それもできなかった。


 風のない湖にさざ波が立った。冷たい。

 事故か事件か自殺か。

 男が触れた湖の水はあまりに冷たい。冬の海の水は、もっと冷たいのだろうか。男は足先を振り、水を切った。感覚が薄れていく。


「もう、忘れてもいいころじゃない?」


 そうだ。友人の言う通りだ。彼は正しい。男は思った。だが、正しさが必ずしも人を救うわけではない。それが男の最後の言い訳だ。

 さらに一歩、冷たい湖に足をつける。もう一歩。もう一歩。男は花のようだと思った彼女に近づいていく。そして、男は立ち止まった。再び友人のなにげない言葉を思い出した。

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