静謐のインソムニア

 快速電車でしばらく停車駅がなかった。進行方向右側の窓から見える広い敷地に四、五本、大きな百日紅の木があった。一瞬で目につく。美しいというのも憚られるほど一瞬で視界から消える。男にはそれが嬉しかった。

 大手不動産賃貸会社に勤め、夏になると空き時間は決まって映画館で過ごした。水曜日のサービスデイは一本千円。安月給の男には、値段は重要だった。

 窓の外を白く分厚い雲が覆うなか、青空も見える。雲はいずれ残された青空も覆してしまう気がする。夕方には雨が降り始める。十時過ぎに始まる映画は、終わるのが十三時少し前。濡れずに帰れるだろうか。


「まあ、平気か」


 家にいる時のくせで独りごちた。

 思考が言葉になって不意に漏れだすことがある。誰かに聞いてほしいわけではなかった。言葉は自然と口をついて出るものだと知ったのは、大人になってからだ。

 隣に立つ女が気づかぬふりをしながらも、一瞬だけ視線を男の足元にやる。妙な空気が流れる。

 誰もが他者に対して気を払う様子などなかったのに、男という異物の存在により、積極的に無視するという暗黙の了解ができあがった。言葉を交わすことなく成立してしまう車内の空気が、男の周囲にまとわりついてからだ重たくする。


 ——だ。


 慣れていた。油断。気の緩み。過度な緊張。原因はいくらでもあったが、男にとって他者は違和感でしかなく、馴染むようにもがけばもがくほど、自分以外の人々の生み出す調和を見出してしまう。

 自分を消すことに集中するのが一番の得策だった。できるだけ目立たない。それだけで十分なはずなのに、しばらく睡眠不足が続いていた男にとっては、そんなことですら難しいことだった。


 幼少期から頻繁に似た状況に遭遇した。

 些細なことだ。会話が極端に飛ぶ。独り言ちる。表情に乏しい。どもる。指が絶えず動く。視線が一点に止まる、または、止まらない。他人に極度に気を配る。

 男はどこにいても、自分だけが一つだけ余ったジグソーパズルのピースのように感じられるのだ。



 終点駅に到着した。

 車内の緊張した空気から放たれると、男は柱の脇で大きく背伸びをした。

 背筋がぽきんと音を鳴らした。人が一か所に留まる車内と比べ、空気が常に流れている場所の方がはるかに気が楽だった。人も自分もただ過ぎ去る。互いに不快でも、長く印象には残らない。消えゆく存在であることに、男は心底安らぎを感じるのだった。

 男は階段をのぼり、改札を出た。左に折れ、街道沿いに駅の東側へと歩いて行く。半分以上は屋内を歩いていけるが、最後に少しだけ、炎天下のもと歩かざるを得なかった。

 エスカレーターをおりて、立ち並ぶ建物沿いに左に進んでいくと、そこに映画館があった。

 都市部によく見るような特徴のないビルの一階。ウインドウに、上映映画のポスターが並んで貼られていた。男は目当ての映画を見つけた。今日のスケジュールで最も上映時間の長い映画だった。二百分。三時間以上。小さな空間に、多くの人間が長時間閉じ込められるらしい。

 映画館は地下にある。

 館内に響く銃弾の音や男たちの太い声、時々憂いのある悲しげな声、死に近いうめき声、騒音、かまびすしい女たちの、生命力に満ちた声。俳優のセリフと音響の織りなす豊かな色彩が、目を閉じた男に鮮やかな夢を見せてくれる。

 映画のポスターの写真を撮った。内容はあらかじめ確かめてあったが、記録を残すことが、男にとっては重要なことだった。

 地下へと続く急な階段をおりる。途中、列に並ぶための目印が足元に記されている。照明は淡く、赤い階段は血に汚れているかのようだ。暗い。まるで死に近づいていくような感覚だった。

 地下一階の自動ドアが開くと、十メートル四方くらいの小さなロビーがある。人はまばらだった。平日の午前、小さな映画館。多くの人が訪れるわけではないと思っていたが、席は埋まっていた。


「画面の空席からお選びください」


 カウンター越しに、映画館のスタッフのくぐもった声が聞こえた。二人の間には、一枚のたよりないアクリル板と、マスクがある。遠い。


「じゃあ、Eの11で」


 男は自分の声が相手に届いているか不安になる。相手の反応があるまでの一瞬の間、男は息ができない。待つ。


「かしこまりました」


 チケットを受け取り、対角の位置にあるベンチに座った。

 シアターは向かい合わせになっている二つしかない。ロビーの左手が一、右手が二だった。

 男が座ったのは一番遠い場所のベンチだ。そこいらには上映予定の映画のポスターが並ぶ。

 家庭用テレビほどの大きさのディスプレイから、映画のトレイラーが流れている。パンフレットを捲る音や、新たに訪れた人の声や足音、自動ドアの開く音が小さなロビーに響く。

 静寂に限りなく近い騒々しさが、男には心地よかった。


 ——静かだ。


 生は永遠ではないのに、死だけが永遠だった。



 上映の十分前になり、スタッフが入場の合図を告げた。まばらに人が立ち上がると、入場口のスタッフに近づいていく。チケットを見せると、スタッフに半券を切られることなく中に通された。今のご時世、切るのは難しいのだろうか。

 ドアを入って左手に男の部屋の壁ほどの大きさのスクリーンがある。まだ何も映されてはいない。暗い部屋のなかではスクリーンは灰色に見えた。

 シートの配置はスクリーンに対して均一に並んではいなかった。スクリーンから見て右後方だけが余分に席があり、おそらくそこが最後に埋まる席のはずだ。どう考えても映画が見にくい。

 空席が目立つなか、男は最後列の端の席に座った。

 他の客も入ってきた。ほとんどが一人客で、多くても二人、それも三組か四組くらいだった。


「すみません」


 早く入った男の前を、三人が通った。

 一席ずつあいだを開けながら、中央付近に並んで座った。他の列も同じように中央付近の席が埋まっていく。小さな空間の中で、男だけが孤立した。他者の気配を感じながら孤立を味わえる時間だった。

 スクリーンにトレイラーが映し出された。刹那、空気が変わる。人の呼吸や衣擦れの音が控えめになり、次第に薄れ、消えた。映画館で上映中の作品、あるいは今後上映予定の作品の予告編が流れている間、男は誰にも知られぬまま静かに目をつむる。

 映画館でだけ男は眠れた。



 最新の映画ではなかった。十年ほど前に上映された、名高い監督の出世作だ。ソポクレスの悲劇『オイディプス王』になぞらえた物語で、母の遺言を受け取った姉弟がその過去を辿るように旅し、やがて残酷な運命を知る、といった作品だった。

 女の叫び声や、耳に馴染みのない言語が遠くに聞こえた。フランス語が主らしいが、イスラム世界が舞台なのだから、アラビア語も話されている。時々英語が混ざるのがわかる。

 男は目をつむってすぐ、浅い眠りについた。映画のストーリーはまったく追えていない。字幕なしで、フランス語もアラビア語も英語も理解できない。それでも言葉に乗せられた感情だけは直接的に意味となって響いた気がした。どうしたって理解できないはずの他者が、自分と同じように感情のもった存在だと思える瞬間だった。

 現実と虚構、夢と現を隔てる薄い膜を自由に行き来できるようになる手段が眠りだ。

 映画館で絹のように薄く光る膜は、手の指の先で爪を遷移方向に沿わせてやるだけで裂け、奥の闇が静かに漏れ出してくるのだ。


 ——人と繋がる。


 あわいをうつろう内に、男の足はさらに深い闇へと向かう。しばらく映画館から遠ざかっていたせいか、足の運びが遅かった。映画のシーンに共振するように、人の息遣いや手足の動く気配が揺れる。振動する闇を行く男はおうとつに足を取られ、眠りよりもさらに深い場所へと落ちそうになった。

 男は闇の中で、声にならない声を聞いた。熱。粒子の運動。エントロピーの高まり。長い映画が深部へとおりていけばいくほど、男の眠りもより暗い底へと近づいていった。


 死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない。底を歩きながら誰かに会う。誰かの手を握り、熱と汗を感じる。もう一方の手も誰かを見つける。その手を握る。緊張しているのがわかる。電車で感じるような、自分だけが外にいるような感覚とは異なっていた。ここではひとりではない。

 死にたい、死にたい、死にたい、死にたい。ひとりきりの夜の部屋で聞こえる声は誰のものだろうか。懐かしくて寂しくて、どうしようもなく悲しくて、自分までもが死にたくなる。

 眠りだけが束の間の気休めだ。銀色の夜よりもはるかに暗い映画館の静寂。ゆっくり歩いていく。一歩。一歩。歩いていく。



 死ぬ間際の人のうめき声が聞こえた。それが金属の噛み合わせを解く音だと気づいた頃には、館内はいつのまにか明るくなっていた。

 間接照明が点灯しただけだが、男には眩しく感じられた。リアルの照明。曖昧な空間だったはずが、明らかな現実しかそこにはなかった。

 男はバッグから腕時計とスマートフォンを取り出した。時計の針が動いているのを確かめる。一瞬、止まっているように見えたが、おもむろに動き出した。

 男は完全に目が覚めた。


 駅までの道を、来た時と同じように歩く。

 行き交う人々と自分とでは違う時間が流れているような気がする。

 男にとっては、映画館に入る前と後ではまるで違う世界にいるかのような感覚であった。顔には暑さに対する不快感が表れている。夏の熱の憂鬱なうねりと、男の眠りは完全に無関係だ。

 

 ——夢と現。繋がりが切れた。


 空は快晴。雨の降る気配はない。男は行きとは反対の電車に乗り、百日紅を見て、ひとり家に帰った。今夜は眠れそうにない。

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