投影された世界に真実だけを探す徒労と


「藁にもすがる思いだったの」


 浮気をする女は珍しくないが、浮気をしたことをわざわざ告白してくる女は珍しい。では、それを受け入れてしまう男は珍しくないだろうか。

 男は自身をふがいなく感じながらも、女の、男の寛容に対する挑発に、応じずにはいられなかった。男の倫理観や美徳は浮気程度ではゆるがないと示す好機を与えてくれたのだと、自らを納得させた。

 別れるという決断をくだすことは、積み重ねてきた過去を捨てることだ。過去を捨てることは、自分を否定することだ。自分を否定してしまっては、別れるという決断すらも否定することになる。論理が破綻する。

 男は思考の袋小路で正しさだけを求めていたが、はなから正しさなどそこにはないと気づいていた。姉がいれば。簡単に答えを出してくれるはずだろう。


「別れるって選択肢はないわけ?」


 女の声が重なる。聞いたことのある響きはどこかよそよそしい。応援していた俳優をいつのまにか忘れて、久々に画面の向こうに見た時のような気まずさがあった。関係性が新しくなる瞬間、意識と感覚と思考の噛み合わないぎこちなさに困惑するのが常だった。


(姉さんは、この関係の複雑さをわかっていないんだよ)


 男は無理解という線を引いた。一歩だって踏み込まれたくはないという意思表示は明確に伝わった。だらだらと意識に居残る姉は、男にとっての永遠の異物だ。自己否定の象徴だ。内省のたび、意識は姉の顔をして現れるのだ。


『まあ、わかりたくもないけどね』


 幼少期の記憶が蘇る。

 街灯がひとつ切れていた。駅から家までの道で、その数メートルのみが暗かった。ちょうど前が空き家で、生活のあかりもなかった。眠りよりも暗い闇があることを知った。コントラストは闇をより暗くする。光のあふれる街の夜の隅に、ぽかんと穴があいた。


「雑木林に入ってはダメよ」


 姉に禁じられ、初めてできた隣の学校の友達とはすぐに会えなくなった。

 三年後、中学校で再会したふたりは、たがいのことを覚えてはいなかった。それとは無関係なあらゆる運命が互いの魅力に気づかせ、惹かれ、恋に落ちた。

 男と女にとってその過去が重要なことではなくなった頃、ふたりはあらかじめ知り合いだったことを思い出した。姉が雑木林で死んだ。自殺だった。

 帰り道に空を見上げた。秋空に月はなかった。月のない夜だからこそ星がよく見える。誰に教えてもらったのだろうと考えてみても思い出せない。本物の空の下では、プラネタリウムのように眠くはならない。デネブ、ベガ、アルタイル。西の高い空に見える星は、大きな直角三角形を描いている。


「簡単な話。円運動を垂直方向に投影すれば、単振動になるから」


 女を試すように男は言った。今思えば、女が浮気したのはある種の意趣返しだったのかもしれない。

 女はもはや少女ではなく、大人びた顔立ちにはかすかにその面影が残っている。にわかに思い出される記憶と目の前の現実を重ね合わせて確かめるには、過去はあまりに遠すぎた。


「それは見方の話でしょ。見方じゃなくて、本物だけが知りたいの」


「本物なんてどこにもないだろ。どう見えるかだけが、僕らにとって真実なんじゃないか」


 どのように世界を眺めるのか、ということだ。

 シンプルな関係によって複雑な世界が形成されるのは、ニュートン物理学のレベルでも容易く証明できる。

 だが、あの直角三角形の放つ光の美しさは、一つの見方に過ぎないのではないだろうか。

 ちがう、星の位置を天球に縛り付けたのは、愚かな男の失策だ。


「じゃあ。私が本物だと思うものがなにかを知りたい。そう答えればあなたは満足するんでしょう?」


 女の後悔と愛憎が絡み合い、凪いだ夜ににわかにうねりとなって、つむじ風を巻き起こした。

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