不可解に空いた穴から
「くだらないお喋りだね」
――あたしだってそう思うよ。
食卓に並ぶのは、閉店間際のスーパーで買った五十円引きのコロッケと、半額のしなしなになったサラダと、帰ってから炊いたご飯だ。奇妙だ。女はいつもと変わらないはずの食事に、なにかが足りないと思った。
男は女の話を中途で遮り、自分の話を始めた。男にとっては、くだらなくない話らしかった。
「そういえば今日、あたらしい契約が決まったんだ。冬のボーナスは弾むぞ」
「ホント、すごいじゃない!」
「ああ」
努めて無感動に声を低めて見せても、賞賛された喜びは隠しきれない。男が子供のように無邪気であることを目の当たりにするたび、本当の子供などとうてい作れないと思った。
女の実母も義母も同じように望んでいる。女が二人のように子を産み、育て、自分達が歩んできた道を辿ることを。
——でもね、時代は変わったのよ。
子を持たないことは珍しいことではなくなった。結婚しないという選択をする人も増えた。家族を作ることだけが、人生の価値や意味ではなくなったのだ。と思いつつも、ソファで寝転ぶ男を見ると、女は自分が間違っていたのではないかと感じる。
「風呂、明日入るよ……」
「そう……。わかった。明日の朝に入れるようにしておくね」
「ああ、よろしく」
食事を終えてすぐに熱い風呂に入れるよう準備してあったことを、その男は知りもしないのだ。缶ビールを片手にソファに寝転ぶ姿は、父に瓜二つであった。
「子を持つ幸福ほど素晴らしいものはないんですよ」
テレビでママタレと呼ばれる女が言った。隣に座るイクメンと呼ばれる男は、うんうん、と相槌を打っていた。大衆に迎合し、見ている人々が喜ぶ言葉を探しているだけだろう。どうせ数年後にこの男は不倫でもしてスキャンダルになるのだ。と女は思った。
女はテーブルに置かれたリモコンを手に取ると、チャンネルを変えた。
「あれ、見てたのに」
「あ、そうなの? ごめん」
謝ったものの、女はチャンネルを戻さない。男も何も言わない。切り替わった画面に映るサバンナの光景を、当たり前のものとして既に受け入れていた。
自然が作り出した壮大な景色を映すには、三四インチの画面では小さすぎた。丈の高い草のなかには数え切れないほどのインパラがいた。死と繁殖の繰り返し。画面の中の自然の仕組みは、実に単純に見えた。
「……君が望むならば、いつでも作ろう」
少し近づいただけで、男の汗のにおいが立ちのぼってくるのがわかった。シャワーも浴びずに同じベッドに寝るのですら不快であるのに、なぜ今そんなことを言うのだろうか。女は返事もせずに、ただ立ったままテレビを見ていた。
鹿はおとなしく、最初は死んでいるのかと思った。鹿の瞳は、黒豆のようにつやつやと甘い光を放っていた。ライオンが爪で押さえつけると、ぶるぶるっとからだを震わせた。
「悲しいから泣くの? それとも、泣くから悲しいの?」
ジェームズ=ランゲ説を初めて聞いた時は、なにを馬鹿なことを言っているのだと、と女は思った。今では、生々しい感覚をもって肉体から湧き上がるなにものかに不可避的に涙が流れてしまうこと、それが耐え難い悲しみを引き起こすことを知っていた。
「……子供なんて欲しくない」
「……え、なにか言った?」
――確かにこんなの、くだらないお喋りだ。
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