水のめぐる時に夢を見る、ある秋の日

「それ、なにが見えるんですか?」


 ――天気予報、ラジオで聞いて来たのに。


 くもり、のち、晴れ。午後から秋らしい晴天がひろがるでしょう。天高く、馬肥ゆる秋。収穫の季節を待ち侘びていたのは、人だけではない。鳥が、獣が、秋の実りの恩恵を授かる。一進一退の緊張感がある。時機を逃せば、数百万単位で売り上げが変わる。それをとらえるには、いくらか才が必要だ。

 ラジオと女の声ははっきりと聞き分けられた。ラジオの向こうの声は、女のものより少し重い。女の声は突き抜けるような青空と同じように、果てがない。対照的だった。


「見てみますか?」


 女は男の隣にハンカチを敷き、腰をおろした。双眼鏡を覗き込むと、白い鳥が見える。時々、浅瀬を覗き込み、ゆるやかな動きで嘴を水にさした。


「鷺ですか」


「ええ、鷺です」


 珍しくもない鳥だった。川や湖、海のそばならよく見られる。小鷺、大鷺、青鷺。男が見ていたのは小鷺だった。鳥は自然を、とりわけ天候をよく知っている。雨が降るだろう、と男は思った。


「どうして、また鷺なんかを」


 雨が女の肩を打った。空と同じ色のワンピースが濡れた。一点、藍色に近い色になり、そこだけ夜を覗き込むように暗かった。空は晴れていた。


「雨、降ってきましたよ」


「ええ、そうですね」


 女は立とうとしない。男も同じように座ったままだ。知り合ったばかりの二人はぼうと見つめあって、ただ時間が過ぎていく。


「……行かないんですか」


「さあ、どうでしょうか」


 真上の分厚い雲を除けば、ほとんど空に雲はない。通り雨であることは明らかだったが、わざわざ濡れる必要もない。

 女の服を雨が濡らすと、次第に藍が青を覆っていく。濡羽色の髪は深く艶を増し、前髪の下から覗く瞳は綺麗な琥珀色だった。日が陰り、遠くの小鷺が鬼火のように燃えるように見えた。


「濡れますよ。行きましょう」


「ええ、行きましょう。でも、……どこへ?」


 木陰で雨をしのいだ。

 本降りというわけでもない。鷺はまだ、湖畔にたたずんでいる。細く長い足は大きな体を支えるのには不十分に見えた。翼は飛ぶには大きすぎるように見えた。人間的な均衡を見出そうとするからこそ、美が遠ざかる。大きな時の流れと、機能に潜む変遷とを感じなければ知り得ない。

 川の一滴の水がかつて雨だったこと、やがて海になること、海はかつて誰かの涙だったこと。

 時こそが全てを支配し、美に、愛に、人の心を縛り付け、翼を燃やして自由を奪ってしまう。隣の女は、かつて存在していた誰かに過ぎないのだ。


「鳥たちは、どこへ飛んでいくのですか?」


「きっと南でしょう。あるいは、北かな」


「フフ。真逆じゃないですか」


「どこへでも、飛びたいところへ飛べばいいんですよ」


 戦争が容赦なく奪っていった命を、男は記憶の糸を辿るように、ひとつずつ数えた。一か所だけひどくもつれて、ほどけないことを知った。

 記憶が見せる束の間の幻影か、狐につままれたのか、隣の女が現実だなんて思えるほどに、男はのん気ではいられなかった。混乱の糸を断ち切るために、誰かが差し向けたのだろう。

 男は後ろを振り返り、遠くの田の中に立つ小さなやしろに視線を向けた。手を合わせ、祈りを捧げた。明日を生きていくための糧を願った。

 それだけで十分だった。銃弾でもなく砲弾でも爆弾でもない。飢えが彼女を奪った。馬鹿げている。馬鹿げている。馬鹿げている。だが、豊かな実りさえあれば、守れた命だったのだ。

 遠く白い煙があがった。それもいつか、雲になる。雲になれば、雨になる。雨になれば川になって、海にもなる。

 雲は途切れ、雨がやんだ。女はもういなかった。

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