憎しみと後悔に飲み込まれて死と性を垣間見る

「もしもし、もしもし」


 ――お願いだ、お願いだから、切らないで。


「もしもし、もしもし……」


 ぷつん。つー。つー。電子音は心臓の止まる合図だと思った。拳銃で頭を撃ち抜いたわけでもないのだ。一瞬で息絶えるなどあり得ないことなのに、その瞬間に、少年にとっては母の命は終わったのだ。

 泣いてても、苦しくても、生きてほしい。そんなことは言えなかった。言わなかった後悔もなかった。ただ、母が最期までやりとげなかったことを、後からむしろ憎んだ。



 青年はバッグに包丁を忍ばせ、カップ酒をあおる。深夜二時。橋の下。人の気配はどこにもない。

 酒の甘い香りと川の水の音が暗闇を照らしていた。

 青年は世界と少しそりが合わなかった。おさまるべき場所を探して歩いているうち、年老いた男が必死に坂道をのぼる姿に感銘を受けたり、小さな子供が縁石の上でバランスを取って得意げに微笑む姿を美しいと思ったり、した。漠としている時を生きるのは、風をつかまえるくらい難しい。茫としている海を泳ぐのは、雲をつかむくらい難しい。母という毒が不在によってはじめて効果を発揮することを、大人になってから知った。

 青年が少年だったころ、何故生きているかという問いに答えてくれるのは、母だけだった。

 問うべきは、何、だった。自分は何者であるか、だった。今はここにいない重罪人を責め立てても、青年に救いは少しもないのだから。

 酔っていては、考えごともまともにはできない。

 暗い。光がない。目を瞑ると、夏の太陽にひまわりが揺れた。近くにひまわり畑があった。彼女の笑顔を思い出す。なんてぎこちなく笑うのだろう。もっともっと、ひまわりみたいに笑ってくれと嘆きたくなるけど、ここはあまりに静か過ぎた。夏はとうに終わり、頭を垂れてうなだれる様子は、さながら。と、青年のさまようような思考はそこでとまった。感情と記憶の区別のつかない感覚が押し寄せると、いっぺんに青年を飲み込んだ。




「そんなの、遺伝するものじゃないでしょ」


「氏か育ちか、って話?」


 公園のベンチにすわって煙草とコーヒーとくだらない議論だった。紅葉は、濃い緑のなかに隠した紅色を、ほんのりと浮かび上がらせている。

 風が冷たい。犬と年寄りを除けばほとんど誰も訪れることのない公園だ。ベンチがふたつ。遊具もないし広くもない。白い肌の、名も知らない木が中央に一本ある。あとは公園をぐるりと巡るように季節が感じられるような樹々が植えられている。桜、紅葉、ハナミズキ、金木犀、椿。うつろう大きな時間を感じるには、子供たちは小さすぎる。犬と年寄りには、木の生きる時間が調和するらしい。


「うん。私は後者に信頼を置いてるから。だって、遺伝がすべてを決めてしまうなら、私たちに生きているいみなんてないでしょ?」


「僕たちに、生きてる意味なんてないよ」


「じゃあ、こうして私と過ごす時間にも、あなたはなにも意味がないと思うの?」




 終わりの音は、なんともあっけなく間の抜けた感じがした。電話が繋がっている限り、母の命も繋がっていることが証明されている。逆に言えば、切れた瞬間に途切れてしまうということなのではないか。実際その時に思ったことは、死以外のなにものでもなかった。そのはずだった。彼女だけがいなくなり、母だけが残った。そんな不自然が、許されるのだろうか。

 パトカーが橋のそばを通った。

 青年は身をキュッと縮め、にわかに自分の滑稽に思い至る。こんなことをしたところで彼女は戻らないし、母の毒は心に居座り続ける。

 パトカーは速度を緩め、ゆっくりと橋のしたをくぐった。青年に気づいた様子はなかった。カップ酒に手を伸ばした。ガラスではない、ぬめっとした感触があった。酒のにおいにひきよせられた黒い虫がそこにいた。不意に吐き気をもよおし、青年は嘔吐した。吹き出した吐瀉物に驚いたのか、虫は音もなく逃げた。車の音が遠ざかると、どこからかリズミカルな軋みが聞こえた。青年は、不思議とその音に引き付けられて、ふらふらと千鳥足でその方向へと近づいていった。ぎし、ぎし、ぎし、と金属やプラスチックが呻くような音が確かに聞こえた。河原の駐車場に一台の車があった。揺れている。なにをしているかくらい、青年にだってわかる。


 スマホの電話帳を見て、そこにある電話暗号をすべて消した。馬鹿げている。母を拒むのならば、なにもかもを捨てることが必要なのだ。

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