花のにおいと烏

『わかってるって。六時には迎えにいけるから』


 忘れられた花はもう枯れている。踏切に立つと、男はそこに並ぶ花や缶ビールをぼんやりと眺めた。目のまえを走る電車は、時速六十キロを超えるそうだ。自動車の法定速度より少し速いくらい。大したことはない。

 数メートル先に死があるのに、屋上のふちに立つような恐怖は感じない。上手に死に対処できるという自信の表れだろうか。男はもう一歩近づいてみた。轢死というものは、人間の本能からはあまりに遠いのだろう。

 風のなかに、微かに機械油のようなにおいを感じた。

 子供が父親の顔を見上げ、声を張り上げた。電車が通り過ぎ、声はかき消された。四歳、五歳くらいだろうか。父親の背広の裾を強く引いているが、電車が前を過ぎる間は到底聞こえそうにない。子供はそれでもお構いなしに声を張り上げている。電車が過ぎ去った。


「平気だよ。僕、ひとりでもちゃんと待てるよ」


 父親はようやく子供を見下ろすと、その頭をくしゃくしゃっと撫で回した。


「ああ、えらいな。すごいな」


 ――ひとりになんて、するんじゃなかった。


 男の後悔は、こうして不意に訪れる。慣れたはずの日常に亀裂を走らせ、もう戻れないと思うほどの奈落に突き落とされる。だが、なぜか日常は戻る。




 花を買った。誰が死んだのかも知らずに献花するのは、あまりに無分別かもしれない。枯れた花を目にし、衝動的に買ったのだった。

 男はいざ踏切に立ってみると、はたして花を捧げて良いものなのかわからなくなり、その場にしばらく立ち尽くした。いつ置かれたかもわからない紙パックのジュースやお菓子がある。烏が食い荒らしたのか、周囲にはゴミが散乱していた。


「あ、ご遺族の方ですか」


「え、ああ、はい」


 男は反射的にそう答えていた。誰が死んだかも、どんな人かも知らなかった。

 目の前の女の年のころは三十前後、派手な服装とはちぐはぐなスッピン顔。水商売だろうか、化粧をすれば、きっともっと若く、美しいのだろう。その手には、仏に捧げるにはあまりに派手な花が抱えられていた。


「そっか。じゃあこれ、いらないですかね、ごめんなさい」


 男と同じだ。無関係の人間の死を悼み、花を捧げに訪れたのだ。誰のための花だろうか。男にはわからない。


「あ、いえ、せっかくなので」


 息子の顔が思い浮かんだ。あの事故がなかったとしたら、今は高校生くらいだろうか、と思う。この花は、息子のための花なのだ。唐突にそんな考えに至り、男は感極まり、嗚咽が漏れそうになった。思わず口に手を当てた。


「……ごめんなさい。図々しいとは思ったんですけど。花がないと寂しくって。夜に貰った花を、朝になってこうしてここに活けるんです」


「ええ」


 男の表情の変化に気づかないまま、女は手前勝手に話し続けた。それが不思議と心地よかった。乱暴に、理不尽に、人の悲しみに踏み込んでいく誰かの存在は、時に救いになるのだと知った。




『急に駆り出されて、電車はとまるわ、乗客には怒鳴られるわ、内臓やら腕やら足やら飛び散ってるやら、烏は来るわってんでもうてんやわんや。ありゃ堪えたよ』


 前の職場で、何度も警備員の無駄話に付き合わされた。

 近隣の私鉄に五十年近く勤め、数年前に退職して今はやることもなく、こうして週三日、警備員の仕事をしているのだという。

 交通費は支給されるが、私鉄、バスの無料乗車券を持っているため、純粋にその分が手取りとして上乗せになると自慢していた。


『ああ、でも、ここだけの話で。よろしく!』


『ええ。わかってますよ』


 警備員の中年男性はどうやら、死に慣れきっていた。




 人の死肉も腐りかけのゴミも、烏にとっては変わらない。死んでしまえば、人はただそれだけの存在だ。肉体に永続性はない。不完全な人間が霊や魂の存在に永遠を託すのは、食われ、腐り、朽ちていく体の卑小さを知っているからだ。

 男は花をそっと置いた。女も呼応するように花を置くと、しかつめらしい表情を浮かべ、手を合わせた。


「私、家族ってもういないんですよ」


「ええ、そうですか」


 ありふれた死が日常に溢れているのに何故か遠く感じられることに耐えられなくなったのは、男だけではない。花の甘い香りも数日経てば消える。人が死者に花を手向けるのは、死を生の近くに引き寄せるためかもしれない。男は思った。

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