雪の中を歩くふたつの熱と短い夢
「本当にそうかな?」
――だとしたら、映画の意味なんてないんじゃないの?
男はいつのまにか、女に映画を薦めるようになった。古典から最近のハリウッド作品まで、自分が面白いと思った映画を何でも薦めた。だからこそ、女の言葉を疑った。「最高の映画って、結局はトレイラーなんじゃないのって思う時がある」と。
開場したばかりの映画館には、男と女のふたりだけだ。地方都市の小さな映画館のレイトショーともなれば、観客は少ない。
ポップコーンのにおいもストローでコーラを啜る音も、人が少ないと三割増しに感じられる。女の手を握った。熱い。暖房のよく効いた部屋ですぐに女の体温は高くなる。
「そういうのってさ、映画の後半で雰囲気がよくなってからするもんだよ」
声が冷たい。わざとだ。優位にいるのが誰かを知らしめるための、ささやかな児戯に過ぎない。
男は手を離した。手が拗ねている。膝に戻った男の手を、女はうえから包み込むと、強く握りしめた。身を乗り出し、男の顔を覗き込むようにして体をひねると、顔をしたに潜り込ませた。
「なに、いじけてるの?」
やはり、女の手は熱く。声は冷たい。冷たさが心地よい。差が、不安定な存在に輪郭を与える。
感情を隠すのは恋愛の常套手段だろうが、男にとっては手練手管を駆使して攻防をかわすような男女の交わりを求めていたわけではない。心安らぐ時間が欲しい。それだけのことだった。
ちらほらと他の観客も現れた。中年と少女。いかがわしい関係だろうと男は思った。この町の少女ではないのは制服でわかる。老夫婦もいる。彼らの背景には映画よりも大きなストーリーが隠れているのだろう。眼鏡の青年。ひとりで静かに映画を楽しみたいというのは男の本音と同じだ。
暗くなった。
トレイラーが流れ始める。
大きな物語の断片を切り取っただけ。それは、種のない西瓜の甘い中心だけを食べてあとは捨ててしまうような贅沢だろうか。そこからなにも芽生えることはない。魅力的だが、すぐに忘れてしまう。
男は諦めて手のひらを返すと、女の手を強く握り返した。自分以外の人間の熱を、確かにそこに感じた。
「泥が降るみたいな感じだったよ」
「冷たくって重たい印象だったけど、泥ってのは少し大袈裟じゃない?」
見終わって気づいた。一本の映画も大きな物語の断片に過ぎなかった。たった百十分やそこらの長さで、肝心なことなどなにも語り得ない。だとしたら、映画の意味とはなんだろうか。
人ひとりの人生ももしかしたら、大きな物語の断片に過ぎないのかもしれない。そういう切れ切れのなにかを繋いで、紡いで、なにかもっと大きななにかになるのかもしれない。
漠然と思う。自分の小ささが怖くなる。ならば、トレイラーが最高の映画だという女の言い分だって、大きく違ってはいないのではないか。
「ハハ、大袈裟かもね」
女は笑った。上機嫌だった。
雪の降る道を駅まで歩いた。
寒い割にあまり雪が降らないのは、雲が周囲の山にぶつかって、ここまでこないからだ。ここで降る雪のほとんどはきっと、長い時間をかけて川に押し流され、堆積した泥の中から生まれたのだ。つまりは泥が降る、と男の頭のなかでは非合理的な論理展開へと、半ば落ちていくかのように自らを納得させた。悪い気はしなかった。
家に帰る途中のコンビニに寄ると、毎晩同じ発泡酒とつまみを買う女が、今日は奮発してビールを買っていた。
いいことがあったのだろうか、と男は思った。
昨日と今日がちっとも変わらない退屈な毎日のなかでは、なにか気分転換が必要なのだ。なまぬるい空気にじっと浸かっているうちに、自分の体温がどのくらいなのか、男はとうに忘れていた。
トレイラーは短か過ぎる。男の人生も、女の人生も、おそらく同じように短い。だが、それでも握った手はひどく熱く感じられた。
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