君をすくえなかった夜と星をすくう夜
「すごい雲ですね」
女は訝しむように眉を顰めた。この国の人間がしばしば見せる表情だったが、数ヶ月過ごして、不機嫌なわけではないとわかった。
「雲? 日本には雲がないの?」
熱帯ならではの急速に発達した入道雲が、空を遮るように立ち昇っている。「いや、雲のうえにはなにがあるのだろうって」、と青年はふと、自分が日本語を使っていたことに気がついた。
「え、なに?」
日に焼けた肌が眩しく感じられた。年中太陽は高くあがり、この国では影が長く伸びることはなかった。赤道付近の国だが、高地であるこの国では、母国よりもずっと気候が遥かに厳しい。
「ああ、ごめんなさい。雲のうえには何があるんだろうなって。そんなことを考えただけです」
「ハハハ。なに言ってるの。ここがもう、雲のうえじゃない」
雲の上を意味する古代の言葉が町の名前の由来となっている。
幼気に微笑むその表情は、純粋無垢な少女に見えた。化粧が薄い。日中は気温が上がるため、汗ですぐに流れてしまう。彼女いわく、はなから化粧をしない女性が多いのだとか。
「ああ、たしかに」
標高から考えれば、彼女のいうことに間違いはなかった。だが、頭上にも雲がある。中にいる、といった方がしっくりくる気がした。日によっては、霧でなにも見えなくなることもあった。
霧の中、という名もあったという話を思い出した。
「心配はいらない。あの雲も山にぶつかって雨になるから、ここまでは来ない」
異国の地で、見知らぬ者に囲まれている時ぐらいしか、青年は空を見上げることなどしない。
地表を行き交う些末なものばかりに目を奪われてしまうのは、危険が多すぎるからだった。治安の面では断然自国の方が優れているのに、どうしてそんな風に感じるのか、解せなかった。
空がずっと近い。ここを支配しているのは人間ではなく、自然だ。天候次第では何も見えなくなる。丘から丘の距離を測るのに、歌や口笛の文化が発展した。自然に対する人間のささやかなあらがいが彼らのユニークな文化を育てた。
自然は災いと同時に恵みをもたらす。一神教も善悪二元論も、アニミズムに近い信仰形態を持つ土地の人にとっては今後も無縁だ。
正しさや確らしさや事実や是か非かなどと、捉えがたい問題に時間を費やした学生時代が、こうして青年をこの土地へと導いたことを思うと、なんとも皮肉だ。
「いじめってんじゃなくって。ただおとなしいから誰とも話さないだけだろ。周囲の人間だって、わざわざ話しかけたりしないだけ」
女は月に二、三度、フットサルの後に訪れる。眉だけ描き、ほとんどスッピンのまま、長い髪を大雑把にまとめあげている。店内の弱い照明で、顔に影が差した。
「でも、無視してんならいじめじゃないの?」
どうして彼女はそんな顔をするのだろうか。獣が最期に見せる潤んだ瞳に似た、生に対する執着があった。無邪気に笑えばいいのに、などと思い、青年は自分のナイーヴさに辟易した。
「いじめって定義できるのかな。線引きできる? 感じた方が正義? ハラスメントと同じ? 僕にとってはなんでもないことだったんだけどな」
伏し目がちな顔をちらとあげると、鋭い視線が青年を射抜いた。
「それが相手にとって同じではありえないことくらい、君はもう気づいているでしょう」
——図星だ。
青年は枝豆に手を伸ばすと、皮ごとくわえ、器用に中身だけ指先で押し出した。運動後の塩味は身に深く浸透していく。欠落が埋まるようだった。
女は鶏軟骨のからあげをつまみあげ、軽やかに口に放り込んだ。
「青年、迷うな。前へ進め。君が正しいと思うことだけが正しい」
「アハハ、なにそれ」
迷い足踏みしているくらいなら進んで壁へぶつかれ、体育会系の教師のような教訓を垂れる彼女の天真爛漫がうらやましかった。そのくせ自分だけはずっと前から進むのをやめて暗い場所に居座っているだろう、青年はその言葉を喉の奥でとどめた。
それが彼女との最後の思い出だった。
「ついでに言えば、すぐ虹が出ると思うよ。吉兆ね」
「そんなこと、わかるんですか」
言われて、青年も半ば納得していた。なんとなくそう思っていたのだ。風のにおいや空気が肌に触れる感触、雨の気配、それらが語りかけてくるようだった。
「いつも空を見ているから」
風、土のにおいも、水の音、なにもかもが近く感じられた。善悪の二元論から解き放たれて生きる意味を考えてみても、青年はまだ想像できない。遠い。だが、そこに生きる人々の感覚だけは近くなってきている。
「空気は物静かだから、あなたの国では、きっとその声が聞こえないでしょうね」
「ええ。雑音が多過ぎるのです」
夜になった。
熱帯だと甘く見れば、夜は眠れないほどに冷え込む。山の夜は、太陽から最も遠く離れる。つまりは、夜空と近くなる。
暗い底から光をすくいとるみたいに、星に手を伸ばしてみたくなった。
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