約束された幸福の終わり
「働きすぎじゃないの?」
女は、娘の帰りが日に日に遅くなることを気に掛けていた。十時や十一時ならまだしも、日を跨ぐことも珍しくなかった。茶を淹れてやるが、娘はそれを無碍に断り、戸を引いた。
「お母さんは主婦だからわかんないんだよ」
夫の稼ぎだけではやっていけないと嘆く友人に、女は申し訳ない気がした。安定的ではないものの、月に手取りが四十万を下ることはないし、多ければその倍以上。年収に換算すれば、九百万を僅かに上回る程度。友人の夫は、その半分以下。二人で働いたとしても、女の夫の収入を上回ることはなかった。
娘は中高一貫の私立から、都内の国立の女子大に入学し、有名企業に就職した。誇らしかった。性格は夫に似て勝気で努力家だ。エリート街道を駆け上ることははなから決まっていたようなものだった。
娘の成功を、女も夫も疑ってはいなかった。才に努力が加われば、それに勝るものなどなにもないのだ、と。
娘の就職が決まるのと同時に、コンビニで履歴書を買った。短大卒で二年間事務職員として勤めたが、それも三十年近く前のこと。職務経歴書は必要ない。
女がやってきたことと言えば、毎日ふたりのためにご飯を作ることくらいで、仕事を探すうえで能力だと誇れるものなど何もなかった。才能なければ、努力をすることもできない。
学食の求人を見つけたのは、そんな時だった。
「あら、今日も朝から来て、二人とも真面目だねえ」
女とさほど年齢差のない二人の青年が、毎朝学食に顔を出した。朝食は昼より少し安い。それを目当てに来る学生が一定数いた。彼らはその一部だった。
「ちがうちがう。おばちゃん、俺たち、一、二年で単位取れなかったからこの時間から来なきゃいけないだけだから。アハハハ」
「そんなことないわよ、偉いえらい。今日もおまけしておくわね」
茶碗の大きさは変えられない。上に山盛りしてやる、それくらいしかできなかったが、青年たちの笑顔を見られれば、女は満足だった。
「そんなの、誰にでもできる仕事でしょ」
娘の苛立った声には、明白な侮蔑が含まれていた。仕事を始めることにはじめに反対したのは夫だったが、彼を説得した頃、今度は娘が反発した。
「でも、娘さんも大企業にお勤めなんだから、きっと大変な仕事をしているんでしょう。そしたら、私たちの仕事なんて、そんな風に言われちゃっても仕方ないじゃない」
同僚の言い分が真っ当な考えだとは思うが、働く意味などないと否定されるような仕事ではない。食事を作る、それだけのことを二十年以上してきた、延長線上に仕事があった。仕事の否定は、家庭でしてきたことを否定されているような気がした。
――息子だったら違ったのかな?
自分の腹が徐々に膨れていくことに、少しも違和感を覚えなかった。自然なことだと思った。十月十日で子供は生まれ、育ち、いつか親の手を離れる。自分の幸福に少しも疑問を持たずに、約束された家庭という形において、約束された役割を果たせば、自分の人生はそれで完成するものと思い込んでいた。
初めての子は、名すら与えられる前に、永い眠りについた。生まれてこなかった魂はどこへ消えてしまうのだろうか。
女は遠い記憶を愛おしむように、下っ腹をゆっくりと撫でた。そこが覚えているのは肉体的な痛みだけではない。失った悲しみ、後に得た悲しみ、両極が混淆してせめぎ合うあわいなのだ。女はじきに、それすら失う。
仕事から帰り、女と夫の食事の準備をした。
ソファで眠った。昨晩も遅くまで娘を待っていた。朝は娘より早く起きて朝食を作る。仕事を始めたため、昼に眠ることもできなくなった。夜はまた、遅くなる娘を待つの繰り返しで、休む暇などない。
娘が休みの土日だけが唯一、ぐっすり眠ることができる時間だった。今日はまだ木曜日だった。
――毛布?
目が覚めたのは朝四時、金曜日になっていた。夫か娘かわからない。誰かが掛けてくれたらしい。日はまだ昇らない。
リビングの灯りを点けた。蝋燭の火のような柔らかな光が落ちる。だが、LEDの偽りの光は女にはあまりに眩しかった。
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