黒いディスプレイに映る姿は

 ――突然、大変失礼なこととは存じておりますが、


 茶色の便箋に、濃紺のゲルインクのボールペンで言葉を綴るものの、並ぶ言葉はどこか現実離れしている気がした。

 男は三枚目の便箋を丸め、ごみ箱へと放った。縁にあたって弾かれた。三回投げて、三回とも入らなかった。結果を予言しているかのようだった。


「ハハ、手紙って今時、ありえないわ。そんなのさっさとライン聞いちゃえばいいじゃん。それで断られたら、おしまい。ごちゃごちゃ考えたって仕方ないっての」


 友人の言うことは男にもわかる。

 可能性と分岐で思考すれば、論理的に整合性のとれた明確な解答が見いだせる。単純なことなのだ。か、それだけだ。

 だが、自分の感情を論理的に説明などできるだろうか。と男は隘路に迷い込む。結果がもたらす結果、因果のつながりの一部に激しい苦悶が含まれているならば、避けるロジックがないかと問うのは必定ではないか。

 いや、論理式で正解が導き出せるなどと考えること自体があらかじめ誤謬に陥っているのだろう。


 ——恋愛は理屈では語れない。


「アハハ、お前って頭で考えるのは得意なのに、ホントは馬鹿なんだな」


 笑う友人は、男にとっては仲間内で唯一結婚していなかった。

 彼女の絶えない彼とは違い、男は今までに二人しか付き合ったことがない。一人は中学の頃に付き合ったクラスの女子で、彼女の印象は薄い。魅力的な少女であっただろう、と時々ぼんやりと思い出すが、それ以上のものはない。そもそも好きではなかった。

 次に大学の時から二十代半ばまで、つまりは五年近く付き合った彼女。バイト先のファストフード店で出会った。偶然、同じ幼稚園の、同じクラスだったことを知った。ふたりとも覚えてないのに、不思議と親近感を抱いた。幼少期、知らぬ間にふたりは一年間を共に過ごしていたのだから、記憶の片隅に、互いの姿を無意識に記憶していたのかもしれない。


 ――どちらも理屈ではない。そして、能動性がない。


 自分で動いたのではなく、相手から動いた。

 男は恋の告白というものをしたことがなかった。友人のように手当たり次第に付き合う人間を軽蔑していたが、今になって気づいた。彼は常に能動的に動き続けている。男は常に自然が要求するものに応じただけだ。となれば、思考や感情を最大限に活かして生きている、より人間的であるのは友人の方で、男は外部から与えられた機会に欲望で応じるだけの動物のような存在だった。


 男ははじめて人間になる。


 便箋に書くのではなく、パソコンでまとめてからなら書けるのではないかと思った。

 書いて見ると四十文字かける三十六文字のA4用紙が三枚も埋まってしまった。紙に写し出されることのない文字の尻尾で、カーソルがチカチカと点滅している。ここが終わりです。ここが終わりです。と。


 ——違う。ここからが始まりじゃなきゃいけない。


 手紙を書いているはずが、どこか小説を書いているような心持ちだった。

 数々の論文を仕上げてきた。文章を書くという癖は十分に手に馴染んているはずだった。指先はよく動いた。心の有り様をまざまざと描き出してくれるものと期待していたのだが、出てくる言葉の数々は、どこか空々しい気がした。


「簡単なことだろう。フラれて失うものよりも、なにもしないで失うもののほうがずっと多いんだって。ホント、それがわかんねえの?」


 手段が問題ではなくなっていた。結果ももはや問うべきではない。過程において生じる指先の動物的な動きと、相対するように紡がれる言葉のあまりに人間的である意味とが、辻褄の合わないまま一編の小説として完成に近づいている。

 そう、それは小説だった。

 男の恋愛感情を記述するための手段であったはずの手紙が、事実か否かとは無関係の地で、自由に虚構を生み出していく。

 はじめて人間になる。他者の生み出した自分の欲望とは別の領域の欲望を、自分の意志と思考と感情において探り出そうとしていた。言葉がとうとうと溢れ出す。男は、自分がそれほどまでに流暢に語れることを知らなかった。慕う人に綴るべき言葉であったはずのそれらは、とうに本来の目的からは遠ざかって、自分の生きた証としての、自分が自分であるところの、言葉を紡ごうとしていることに気づいてしまった。

 書く、ということ。論文では満たせなかった欠落を、手紙によって見出した。正確に述べるならば、手紙ではなく、小説だ。彼女がきっかけとなった。偶然でしかない。だが、男がその偶然に必然性を見出したからこそ、それは運命と呼ぶにふさわしいものへと昇華したのだ。



 男は、芥川の言葉の意味を理解した。、という意味で解していた。違う。ということだろう。

 還元主義的な説明だけが正しさである必要などない。科学や産業の発展に伴って合理化されてきた人間の思考は、あまりに欠陥が多すぎる。

 男は人間になってはじめて、動物になる意味をも知った。


 あっさりとした終わりだった。カーソルが点滅している。重くのしかかる記憶を振り払うように、パソコンをシャットダウンした。

 黒い画面に自分の顔が映った。

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