それを友情と偽ったから

『言いたいことが言えないって、すごくつらいんだよね』


 ――でも、言いたいことを言って伝わらない方が、もっとつらいよ。



 夏季休暇のまえに急遽言い渡された通達は九月初めの福岡転勤だったが、あまりに唐突だったこともあり、九月は引っ越しの準備にあてるという口実のもと、十月に繰り延べさせた。

 とはいえ、出張という扱いで週に二回、福岡まで出向いた。断ることなどできるわけがない。自分以外に、行ける人間がいなかった。地元に帰る。それなりの覚悟が必要だった。



『言いたいことをはっきり言えるって、すごいことだよ』


 ――でも、言えないあなたの方がずっと巧みに、音を奏でるじゃない?


 同じ吹奏楽部にいた友人の言葉がよみがえる。

 高校三年の最後の演奏会。女は友人がいたからこそ続けてこられたのだとはじめて知った。感情を抑えていられると思ったのに、隣で素直に泣く姿に、気づけば声を漏らして同じように泣いていた。

 ありがとう。それだけの言葉が出てこなかったのは、そう言った時には、確かな感触が失われてしまうような気がしたからだ。

 言えることは言える、言えないことは言えない。それだけだった。言いたいことのすべてを言えるわけではないし、言ったところで伝わるものとも限らない。だとしたら、どっちがいいだろうか。

 女は言葉をのみこみ、そのかわりに余計に涙を流した。

 


 引っ越しの準備は八月末にあらかた終え、九月の中旬には東京での仕事の引継ぎも済ませた。末には有休を使って引っ越す。

 スマホに絶えず送られてくるメッセージを既読スルーしている。男は女の気も知らず、まるで電話で語るかのようなテンポで言葉を送ってくる。返事しようにも、速すぎる言葉に応じることはできなかった。

 呼吸がとまった瞬間まとめて読み、ひとこと簡単に返事をすればいい。慣れたものだ。

 ブー、ブー、ブーとメッセージ受信のバイブが鳴った。無視して、ランチのサンドイッチ用の卵を茹でる。ハムを切る。

 久々に晴れた秋の休日、どうしても外で食事をしたいと思ったのだった。仕事を忘れて、あいつのことも忘れて。女はスマホの電源を切った。女と繋がることができるのはもう過去だけだった。


 河川敷に手頃な木陰を見つけた。新聞紙を敷いて腰掛けた。

 女は、川の中に入って釣りをする中年男性を見た。虫取り網でなにかを捕らえようと宙に半円を描く少女を見た。岩の上で空手の型の練習をする白人を見た。

 会社からもそれほど離れていない場所で、日常とはかけ離れた光景が目に映じる。ディスプレイ、数字の羅列、苛立つ上司、やる気のない後輩、満員電車、耳を澄ませば聞こえてくる静かな怒声と罵声。

 日曜の午前の美しさに、女は日常の異常さに気づいてしまった。


 ――サンドイッチは正解だったな。



『私には、思っていることを伝える手段が音楽しかないの。まあ、お互いにないものねだりってことだと思うけど。っていうか、あなたの場合は、音楽でも伝えることができるんだから。私よりもずっとましでしょ』


 ――そうかもね。でも、肝心なことだけは伝えられないけどね。


 音楽室に二人で残って練習した。夏休みの夕暮れは、職員室にわずかに人を残して他に誰もいない。ほとんど二人きりだった。

 廊下を赤い日が照らし、床に反射している。教室内からもなんとなくそれがわかるくらいに、二人で夜まで一緒にいることに慣れきっていた。女は手を伸ばした。触れる距離にいた。だが、重なる前に、引いた。壊してしまうのが怖かった。


『ねえ、食べる?』


 友人が鞄から出した手作りのタマゴサンド。


『朝作ったの? 食べられるの?』


『きっと平気でしょ』


 マヨネーズたっぷりで、濃厚で、すごく喉が乾く。食パンはしっとりと濡れ、柔らかい。時間が経っているからか、マヨネーズの酸味が強く感じられる。ほんのりぬるいねっとりとした甘みが口のなかでどろりと広がる。

 咽喉につまる。水が欲しい。苦しい。ねえ、助けてよ、と声をあげようとしても届かない。恋愛を友情として誤魔化してきた罪は、こんなにも苦しいものか。




 部屋に戻ってスマホの電源を入れると、女は異常な日常に戻った。

 珍しく仕事のメッセージはない。男からのメッセージは十一時で途絶えている。まとめて読み終えると、一文、短いメッセージを返した。

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