血と本能の絆し
「ふーん。良かったね」
――良かったって、お前がそれを望んだんだろ。
就職が決まったのは大学のクラスで一番乗りで、有名かつ歴史も長い大企業で将来も安泰。誰もがうらやむ就職先のはずなのに、本人を含め、それが名誉なことだとは思わなかった。
だが、当時付き合っていた女に告げた時の淡白な反応には驚かされた。女のために、絵の道を諦めたのに——。
あいつ、逃げただけじゃん、と言ったクラスメイトも、今じゃ一般企業に勤めているうえ所帯持ちだ。絵はもう描いていない。
お前だって同じじゃないか。文句をいってやりたいのと同時に、やるせない気がした。結局は家族を持った。自分もまた、同じなのだ。絵などにうつつを抜かしている場合ではない。稼がなければならなかった。
「めっちゃ可愛いね、姪っ子さん」
結婚したのだから、妻にとっても義理の姪にあたるはずだ。当てつけのように言われたのが癪だった。
子供はいない。二人は作ろうとしたが、できなかった。
男にとって子供などはなからどうでも良かった。不妊治療をしようといわれたが、おざなりにしてきた。しばらくすると、妻はなにも言わなくなった。子供が欲しいと言ったのも、関係の証明が欲しかっただけなのだろうと男は思った。
同じ大学を出た男の妻は主婦をしながらも、家でホームページのデザインと制作で収入の足しにしている。働く時間は短かったが、稼ぎは悪くはない。一人で食うには困らない。
妻の思うところはわからないが、男には好都合に思われた。
「お義兄さんとこ、行ってくるね」
「ああ、俺も行く」
妻の運転で、兄の家へと行く。
男の兄は高校から勤めていたレストランに卒業と同時に就職し、調理師免許を取得した。
将来の夢は自分の店を持つことだという。その兄が結婚したのは、男が大学院か就職するかで迷っていた頃のことで、二十五歳、適齢期と言ってもいいだろう。その時、義姉の腹にいたのが姪だった。
絵筆を手にすると、独特な感覚で色と線を重ねた。才能がある。兄にそう伝えたが、義姉はピアノを習わせたいといって、近所のピアノ教室に通うことになった。絵だけでなく、ピアノの才もあったのだろう。
「あたし、ピアニストになる」
「そりゃいい。すごいじゃないか」
男は姪をよく褒めた。義姉はそれを嫌った。
「駄目よ。だって、ピアノで食べていけるわけがないでしょう」
姪は母に媚びるようにヘヘッと声を漏らした。絵も、ピアノも、才能があるかもしれないのに、母親の意には逆らえない。男の妻も義姉に賛同した。
「そうだよ。安定が一番だって」
——じゃあ、なんでやらせたんだよ。
角を立てるつもりはなかった。思っていたことを口にはせず、男はその場は黙って身を引いた。
妻は姪と義姉を気に入っているらしく、男よりも頻繁に兄の家を訪れていた。二人が固く結託するのは、そのせいだろうと思った。兄も勝手に夢を追っている。妻も義姉も現実を追っている。自分だけは半端なところで彷徨っている。
――正確な描写を学ぶ必要があるけど。色彩感覚は才能だろう。
「あたし、絵も描けるピアニストになる」
――あの時、俺は彼女になんて言葉をかけたのだろう。
床に散乱した一週間分の空の缶ビールを片づけていく。袋一杯にたまる。カンと甲高い音が響く。男はごみ捨て場で近所のおばさんに挨拶した。昔から互いに知っているはずなのに、いつからかよそよそしくなるのが不思議だった。
「やめるって、急にどうして?」
「俺、やっぱり絵を描きたいんだよ。夢をそんな簡単にはあきらめらんねえ」
絵具。年ぶりに画材屋を訪れたのはどんな気紛れだろう。
「つまり、私を選ばないってこと?」
「お前を選んだことなんて、一度だってないよ」
自分の最低さを笑った。ゴミクズのような人間だと思った。それでも男は、画材屋での胸の高鳴りがまだ続いていた。
「岩絵の具でしたら、あちらの棚ですね」「ずいぶんと配置が変わったんですね」「そうなんですか? 私が働き始めてからは、変わってないみたいですけど」
ものすごい速さで時間が過ぎていったのだ。絵で食っていけるわけがない。ただ、労働の合間に、隙間を縫うようにして絵を描いた。
姪がどんな道を選んだかも知らないまま、十数年が過ぎていた。
男は妻と別れてから、兄の家を訪れることもなくなった。そのかわりに、兄が男の家を時々は訪ね、男の描いた絵を持って帰った。どこかで売って現金に換え、男の生活の足しにした。兄は、自分の店を持つことはなかった。
「あいつ、音大の大学院に進むってよ。俺より叔父に似たのかな」
描こう。男は思った。
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