西に逃げても追いかけて来る光を恐れて

「最近いそがしくってさ」


 誰と話すでもなく、鏡に映るぼさぼさ頭の自分に語りかける。部屋が汚いことへの自分自身への言い訳だった。女にとって、部屋はシャワーと睡眠のためだけにある。職場は、金を稼ぐためにある。


 ——じゃあ、私はなんのためにあるの?


 心の声を無視するために、女はなおも鏡のなかの女に話しかけ続ける。そうしていないとなにかが壊れてしまう気がした。


「家で待っている人がいるなら、あたしだってちゃんとかたづけるよ」


〈でも、そんなの言い訳でしょ?〉


 鏡のなかの女が自嘲的に笑った。言葉の背後に隠れた言い訳を、自分で気づかないわけがないのだ。洗面器を覗き込む。排水溝に長い髪がつまっている。指先をつっこんで取り除くと、水中で息が切れたみたいにこぽっと音を立ててから渦を巻いて吸い込まれていく。

 髪を拭いてから、乾かすでもなくベッドで横になり、スマホに手を伸ばす。後悔するとしりながらも体が動かないのだから仕方がない。スケジュールを見る。金曜日の夜の予定を見る。そこまで。ただ、そこまで。呼吸を止めて深い水底から空をながめながら泳ぎ続けるのだ。




「言い訳するのが癖になってない?」


 女は言ったそばから誰のための言葉なのかわからなくなった。友人と会う度に思った。自分とよく似ている。怠惰で、無抵抗で、受動的で、自分を自分以外の変化に託してしまった人の末路。


「うん、そうかも。楽な道に逃げるって、やっぱよくないよね」


 友人は濡れたハイボールのグラスをおしぼりで拭った。しずくが落ち、紙のコースターに垂れる。ぐしゃぐしゃに濡れていた。

 女は、女にとって最も大切なものがなにかわからず、可能性という名の雲のようにつかみようのない存在に惑わされ続けた。巷に溢れる幸せになる方法。愛される方法。愛する方法。自分を磨く方法。美しく生きる方法。方法は無数にあるのに自分にできそうなものは一つだってないし叶いそうにない。誰か救い出してくれればいいのにと願うだけで、足を踏み出す勇気はない。そもそも、自分がなにを望んでいるかすら——。

 溢れそうな感情だけが吐きだされずに膿のようにどろどろ溜まっていつか心をいっぱいに満たしてしまってどうしようもなくなるんじゃないか。


「あぁ、気持ち悪い……。ごめん、飲みすぎだ」


 友人が苦笑する。

 店を出た。友人は淡々と説教を垂れながらも、甲斐甲斐しく介抱してくれる。その優しさに胸をえぐられそうになる。どうして優しいかを、知っている。誰かに優しくなれる瞬間だけは、自分が価値のある存在だと思えるからだ。優しさは最も容易に生きる意味に応えてくれる手段。吐き気が増した。


「ごめんね」


 女は友人に謝った。面倒をかけたことへの謝罪ではなかった。きっと、友人の胸の内にも同じ感情が渦巻いていると思ったからだった。それを言葉にはできなかった。


「なに急に、しおらしくなってんの」




 日曜日にポトスを一鉢買った。変わった品種で、葉が綺麗に開かない。丸まったまま、太陽をまじまじと見ることはしない。眩しすぎるからだろう。女は店員にすすめられるまま、家に連れ帰ったのだ。


「名前つけたの?」「うん」「なんて」「ひみつ」「そ」「うん、そう。ひみつ」


 鏡の中の自分以外に話し相手ができた。買ったばかりの葉の一部が黄色くなっている。落ちる。鋏で根本から葉を切り落とした。


「私は私の名前を知ることができないの?」「そう」「どうして」「だって、あなたは私の植物だから。その名前は、私だけが知っていればいいの」「そう」「うん、そう」


 日曜日はいつのまにか終わった。

 朝が来る。窓から光がさす。月曜日が始まる。窓の外の電信柱にとまる烏がカーと鳴いた。ごみの日の朝にかならずあの場所にとまっているが、おこぼれちょうだいできるのは、せいぜい月に一度か二度、別のところに行く様子はない。


 ――律義だねえ。


 駅、電車、会社。単調な毎日にうんざりしているはずなのに、決められた道に沿って歩くこと以外の術を知らないままで、ころころと惰性が背を押す。律儀だねえ。と、頭のなかの言葉が自分に語りかける。

 小さな駅。後ろに人がいるなどとは思わなかった。中年男性はひどく汗をかき、小さな扇風機で顔に風を送っていた。

 電車がホームに着く。乗る。行き先は、よくわからない。

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