色と配置の戯れの夜
夜の信号が美しい三原色を放つ。横に並んだ三つの配置があらゆる色の元素となって混淆し、あらたな色を成す。だが、誰もいない横断歩道の上で、静かに夜空を破るように照る色は、光としての均衡を成さない。
夜の暗闇のなかで色の秘密を暴こうとしても、反射の乏しい色は等しく、黒に近づいていく。いや、夜の色は青い。日が沈むに従い、光は白から橙、紫、青へと移ろい、煌々と照る夜特有の人工的な光に満ちていく。物それ自体の正確な色は捉えられないが、夜としての色は青、とりわけ深い紺に近い、それは真実なのだ。
男は横断歩道を渡り、夜のコンビニが放つ蛍光灯の光と、周囲を飛び交う虫に目を凝らした。
ガラスにとまる蛾の翅の斑点は、配置とコントラストを意図的に構成したかのような緻密な模様だった。自然の多くは意味もなく美しい。偶発的に生じた機能と美とには、そうでなければならないという必然性は存在しない。完璧な構成を成すのは、むしろその完璧なまでの偶然と無意味にあるのかもしれない。
緑と青と白のコンビニの看板。緑と赤とオレンジの看板。青と白。黄色と青と白。配色とバランス。
男がペンを持つまでもなく、誰かが絵筆を取るまでもなく、世界のすべては作品だった。
何かをこの世に生み出すのは創造主に限るまでもなく、凡人のなにげない言葉や行動、無作為な出来事、意図的な創作、偶然の創作、ありとあらゆる時間や空間において誰かが、そして何かが新たに必然的にものを生み出してしまう。
男が自らに望むのは、とりわけ意図的な創作なわけだが、容易ではない。容易ではないと知っているがゆえに、他者の生み出したものにえらく感動することがある。
男は夜の中のどこかにそれを求めていた。
抽象画の究極はつまり構図と色彩だ、という教授の言葉を真に受けたのではない。鑑賞の手段の一つとして真剣に聞いてはいた。それ以上に、言葉を綴るのに便利な考えだと思った。
小説を書く。言葉は色彩だろうか、あるいは構図を成す要素としての、三角形や四角形といった図形のようなものだろうか。
色の適切な配置によって、互いの色の鮮やかさを引き立たせる。
言葉や文章にも同じことが言える。光の強弱のように、場面の強弱も使いようによっては互いをよく引き立たせる。
色相環に見るような補色を用いるように、表情や感情を隣り合わせに並べれば、両者の差異に明瞭な境界線を引くことができる。
逆に、同系色を並べることによって、繊細な差異に注意を向けさせることができる。読者がなにを読み、なにに意識が向かうのかまで意識して書くことができれば、男が本当に見せたいものをその中心に据えることができるはずだ。
「なんだか難しく考えすぎだと思うの。知識は大事だけどね、知識では語れないところに、絵画や小説の本当の意味があるんじゃない。私たちの創作って、だから楽しいと思うの」
女の声は特定の色で濁ったものではなく、今見ているような、透明な黄緑色か、すこし遠くにあるはずの、空のような青と白だった。
まるで邪気がない。知識をないがしろにしているのではなく、自分の感覚に絶対的な信頼を置いているのだ。
彼女の言葉に、男もまた信頼を置いていた。
「大切なことは目には見えない。そんな簡単な言葉に惑わされないで。ちゃんと向き合って、あなたの言葉を心の奥底から真剣に搾り出してよ。語れないことを語ること、見えないことを見せること、それこそが、私たちが望んでいることでしょ」
女が男に求めていたのは、作るものとしての誠実さだった。
才能や努力が、まれに平凡な偶然に食い潰されることがある。
だが、怒らないで、静かに自分がすべきことを続けろ、と。
誠実に、真剣に。
作れる可能な言葉の配置と色味とコントラストとを実験的な文章で試みるだけでは不完全だ。
遊べ、真剣に遊べ、心の底の苦しみも楽しみも原稿用紙に吐き出せ。おのれの欲望のままを綴るのではまだ足りない、自らを蝕み、侵し、壊していくような事柄すらも喜んで書き連ねるべきなのだ、それがおのれの心の底からの要求であるのならば。
手を止めない。小説を言葉を文章を書き続けていつか至るゴールがあるかすらも見えない。
結局、ここでおしまいと諦めてしまうことが物語の終わりであり、文章の終わりであり、小説の終わりであり、言葉の終着点。表現の終着点だ。
女の描き出した絵画はほとんど白一色なのに、全体の構図に際立った工夫があるわけでもないのに、初めて目にしたその日から、男の脳裏を離れなかった。
感動した。表現者として失格だと思うくらい、その言葉しか出なかった。
人間の底にある世界に対する見方やあり方が素直に表すことが可能ならば、自然とそのように現れるのだ。
男は絵を描くわけではない。だが、女の作品を目にした瞬間、それがずっと小説でやりたかったことだと思った。緻密で、正確で、疑いの余地もなく個性的であるにもかかわらず、誠実で、素直で、天衣無縫の美しさを備えているような、そんな唯一無二の作品だった。
男は女に嫉妬した。生きる上で不要な、くだらない感情だと思っていた嫉妬心が、自らを突き動かすエネルギーを生み出すこともあるのだと、はじめて知った。
「努力かあ。あたしはあまり考えたことがないかな。知識も、技術も、感性も、どれも描くには必要なことだから。そんなの努力というかね、ただのスタート地点に過ぎないと思うの。生きるのにご飯が必要なのと同じ。良い絵を描きたいなら、そんなことは当たり前にできてなきゃ。あたしはね、その向こう側にいきたい」
——いきたい、か。
男の頭に浮かんだ漢字と、女の意図した漢字との一致を確かめる術は、この世界にはもうなかった。
——本当に、もうないのか?
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開く。棚に並ぶ商品のひとつひとつに小説になる可能性が隠されている。視界を満たすほとんどが、誰かが作り出した作品だ。
男が真に小説を書くことができたなら。真に言葉と、世界と向き合えたことができたなら。作り出した文章の全てが心の底から溢れ出してきたものであるなら。男もまた誰かにとっての創作者たりうるのだろう。
書きたい。
この欲望を、ただ欲望のまま吐き出すのでは、小説にはなり得ないし、絵画にもなり得ない。簡単なことに気づいてしまった。
コンビニ弁当とスナック菓子、ビールと缶チューハイをかごに入れた。
長い物流経路、原材料、過程で働く人、その人々の家族、友人、恋人。地中に植物が根を張るように、長い関係性の網の目が深く大きく巡っていく。なにげない色や配置から、どれだけの人々のささやかな物語を読み取れるだろう。
男が研ぎ澄ますような視線で商品に見入ると、店員は怪訝に思ったのか、あきらかに注意を男に向けていた。男は気づかない。対話している。イメージと、自らの誠実さと、描きたいという欲望と。
まだ夜は、しばらく明けそうにはなかった。
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