望みと罪と明日とアルコール
「ベッドから出たくないかも」
「じゃあ、今日は休んじゃおっか」
――なんてね。私は休まないけど。
男はさっそく会社にメールを打ち、つっぷしたまま送信をタップして、死んだように動かなくなった。
カーテンの隙間からさす朝日に部屋のほこりが映ってきらきら光った。掃除したいな、と思いながらも女は男を起こさないようにベッドから慎重にはい出し、出社準備を始めた。
「仕事がすべてってんじゃないけどさ」
ガタン。
ビールの泡がジョッキのふちから溢れ、紙のコースターは無意味なくらいにぼろぼろになっていた。
隣の男は、女の話を真剣に聞くでもなく、画家が絵筆を選ぶかのように、入念に美しい形の枝豆を選り分けていた。そして完璧なバランスで取り皿に積み上げ完成したのは、コルビュジエのロンシャン礼拝堂顔負けの重量感――と同時に浮遊感――を感じさせるような奇怪なオブジェだった。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」
「だって、仕事は大切でしょ。生活の糧を自分で稼ぐ力って大切でしょ。それなのに、どうしてそんなにテキトーな働き方ができるんだろうって思うじゃん」
「思う、かな。でも、僕は自分で稼いでるって感じしないけど。なんか働いてても生活保護気分だもん」
コトン。男はグラスを置き、おしぼりで水滴を拭いた。謙遜でもなんでもなく、自分の仕事に誇りを持っていないし、素晴らしい仕事だとも思っていない。必要な仕事だとすら考えられない。男にとっては自分以外の人も同じようなことを考えていると思っていたが、そうではないらしいと、女と話して初めて知った。
「なんなら、僕は君より、その人の方がずっと僕に似ているって気がするけど」
「ああ、うん。そうかもね。だからなんだか期待しちゃうのかな」
青年は頭を下げた。
「すみません。今日中には終わんなそうで」
謝罪するときはもう少し申し訳なさそうな表情を見せるべきだろう。女にそんな風に感じさせるほどに、カラッと乾いた謝罪だった。
女はどう理解させたものかと迷う。青年が無反省な限り、どう伝えたところで理解されない気がする。でも、なにも言わないままにするわけにもいかない。
「じゃあ、どうして今日中にやれますって言ったの?」
なぜ、を明らかにする。まず、理由を聞かないことには進めないと思った。だが、物事はそう単純ではないらしかった。
「やれると思ったんです」
青年はいかにも早く解放されたいという表情で、静かな反抗を示す。
女は不意に、男の表情を思い出した。朝の別れる時の、半ばあきれたような諦めの表情だった。あたかも、女が悪いといわんばかりだ。
女は責め立てるつもりなどなかった。物事を正確に、効率的に進めるための手段を求めているだけなのだ。単純に、仕事をするうえでどれも必要なことだった。
「どういう根拠で?」
青年は眉を顰め、不快感を露わにした。終わりだ、と女は思った。これ以上話したところでなにも進まないし、変わらない。分水嶺を越えたのだ。
「……」
チャリン。
――今時、お酒が売ってる自動販売機って珍しいよね。
ガタン、ガタン。
チャリンチャリンチャリンチャリンチャリンチャリン。全部十円玉。帰り道の途中にある、小さな酒屋の前の自動販売機だった。
チャリンチャリンチャリンチャリン。空っぽの夜に小銭の音が鳴り響き、胃に熱いアルコールが注がれる。期待。望むから裏切られる。女は望むことこそ罪なのだと思うしか、自分を納得させることはできなかった。
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