ギアの切り替え

「下り坂だからスピード落として。気をつけてよ」


「ああ、わかってるって」


 曲がりくねった坂道を抜けたと思うと、次に待つのは、また曲がりくねった坂道だった。

 カーブで外側にぐっと体重が運ばれる感覚が心地良く、男はどうしてもブレーキを踏む気になれなかった。妻と子供の手前遠慮はしていたが、すぐに前の車に追いついた。

 運転には自信があった。だが、追いついてしまってからのことは、すこしも考えてはいなかった。


「ほら、言ったでしょ」「あーあ、お母さんの言う通りになっちゃったよ」


 非難するような二人の言葉は、男には聞こえない。前の車との車間距離をあけて、ゆったりとした速度で走った。どんなに速く走ったところで前の車に追いついてしまえばそれで終わり。運転は楽しい。だが、競争ではないのだから。


「速く走ったって追い抜けないんだから意味ないよ」


 と妻は言った。

 田舎の山道事情は妻のほうが熟知していた。男もわからないわけではなかったが、速く走れるとなれば血が騒がずにはいられない。前を走るものがいると、追い続けてしまうのが昔からの男のさがだった。

 男の前を走る少年の小さい背中は、追いかけても追いかけても小さいままで、たどり触れられることなど一度もなかった。今だってそうだ。記憶のなかの小さい背中に手を伸ばしてみても、やはり届かない。永遠の憧れになってしまった。


「ああ、わかってるって」


 ――わかってる。でも、追いかけてしまう。




 少年の背中には翼がある。陳腐な表現ですら美しく感じさせてしまうほどに、彼は軽やかに走った。

 スプリンターの多くは跳ねるように走る。着地と同時に強い反発で地面を蹴るからこそ、最速からスピードがほとんど落ちることなく百メートルを走り切るのだ。だが、彼だけは地に足が付いていないように見えた。誰かが掴んでいないと、あっというまに空に飛び立ちそうな、そんな軽さだ。

 県内の陸上では知らない人がいないほど有名だった。なによりもまず、その走る姿が美しかったからだと、男は思う。

 関東、全国、となると、彼よりも早い少年はいくらでもいた。純粋に記録とだけ向き合ってきた猛者たちに混ざると、たちまち紛れて目立たなくなった。そんなはずはない。男には、それが信じられなかった。


 ――だって、あんなに軽く走るのに。なんでそんなに速いんだよ。


「なんでって聞かれても、僕はただ走るのが好きなだけだから」


 ――って、そんなんじゃ全然参考にならないじゃんか。


 少年の後ろを走っていると、男は自分まで身体が軽くなったのを覚えている。ふわっと宙に浮く感触、からだのなかにバネが入っているかのような跳ねる感覚、手足がばらばらではなく、ひとつの大きなかたまりとして躍動するような一体感。

 スプリンターとしては正しい走りだった。足の接地時間が長ければ長いほどスピードのロスが大きくなる。速く走るには加速は当然のこと、いかに減速しないかが大切なのだ。

 手足が素早く回転して地面から大きな反発を受けると、自然と上下動は少なくなる。効率の良い走りであればあるほど上にはぶれない。車や二輪車のような動きになるのだ。

 それでも、彼のようには走れなかった。速度はもちろんのこと、美しく走ることは一生を賭したって難しく感じられた。




 彼がいないと知りながらも、男は同窓会に参加した。そのことをずっと後悔していた。誰かと、すこし話をしたかったのだ。


「四十にもなれば、ひとりくらい脱落しててもおかしくないよな」


「まあ、学年で考えれば少ないのかもね」


 誰一人として彼のことは忘れてはいなかった。

 結局卒業できなかった彼は、同級生と言えるのだろうか。そんな疑問を口にするものはおらず、皆の記憶に残るのは、ただ軽く、風のように走る姿だけだった。


「かっこよかったよな」「ああ」「めちゃくちゃ速かった」「誰も敵わなかった」「きっと、速く走り過ぎたんだろうな」「ハハ、違いない」「ハハハ」


 風のように。

 彼は軽すぎたのだ。と誰かが言った。だから空に近かったのだ。走って走って走って飛んで、いなくなってしまったのだ。と。




 施設に到着した。避暑地はシーズン真っ只中で、関東圏の人が集まっているのがナンバーで見てとれた。

 男と同じように血が踊り、思わず車を速く走らせた愚か者がほかにもいるだろう。

 そんなことを考えながらも、永遠にある空白を思い出した。


「せっかくの休みなんだから、ゆっくりしたら良いのに」


「ああ、わかってるって。ありがとう。でも、もうちょっと走りたいんだ」


 朝の涼しいうちにコテージを出た。

 車のフロントガラスが朝露に濡れていた。触れるとひんやりと冷たかった。夜はまだ冷える。あるいは、手が熱すぎたのかもしれない。




 最後のインターハイ予選、彼はもう走れなくなっていた。それでも部活には顔を出した。顧問の信頼も厚く、彼の言葉がなければ男はアンカーには選ばれなかった。それでも男は、飛べやしなかったのだが。

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