霊帝末の幽州の話。
公孫瓚の話、三国志と後漢書で全然違っています。
三国志だと公孫#王賛#が何年も張純をしとめきれないので劉虞がやってきてその指示で右北平に駐屯、張純が逃げ出したことになっています。石門の戦いへの言及はありません。
後漢書だと公孫瓚は石門で張純を破るが深追いして包囲され200余日の籠城の後やっと脱出してきます。前後不明ですが劉虞が赴任してきて賞金掛けて張純の首を得て乱を鎮めます。
霊帝記の通り中平5年11月に石門の戦いだとその後包囲されたとして200余日後は中平6年6月か7月。劉虞が張純斬ったのは中平6年3月。張純の乱終了後3ヶ月経ってますね。こっちもこっちで変な感じですが、劉虞と公孫瓚の確執を描くために後漢書を採用します。
また本作の劉備の設定は先主伝とかけ離れていますが、それは私が先主伝の試守平原令までの部分をデタラメと解釈している為です。
傍証は
・劉備についてきた親族が誰一人いない
・第一次黄巾の乱で「州郡各挙義兵」したなんて記述は先主伝にしかない
・何進の部下毌丘毅もここにしか出ない
・宦官が地方官の任命に巨大な影響を持っていた時期に高唐尉から郎を経ずに高唐県令になるなんて出世の仕方も不自然。
なお黄巾の乱時点での「それぞれの州郡が挙げた義兵」って私には黄巾賊そのものとしか思えないのですが、後々の話に障るのでその設定は採用しませんでした。
なお田豫は正史では「豫州刺史になる劉備と老母を言い訳にしてお別れした」のですが、徐州の陶謙の元までついて行ってから母を理由にお別れして帰国する筈もないので、別れたのは雍奴の筈です。