黄巾賊のお話です。
三国志孫堅伝では黄巾賊は三月五日に一斉蜂起した様に読めるのですが、後漢書だと孝霊帝紀に黄巾賊の蜂起は光和七年の二月で、三月五日を目標にした洛陽での蜂起失敗に失敗、皇甫嵩伝ではこの洛陽蜂起失敗で全国一斉蜂起したように読めます。なぜか二回蜂起なのです。この話では二月には蜂起せず、三月にクーデター失敗、それ以降で全国蜂起という解釈にしています。
馬元義を密告した唐周ですが、私はずっと馬元義の部下と認識していました。しかし唐周は「張角の弟子」で「上書」で密告しています。上書できる、という地位にあった事から本拠地広宗の県令ということにしました。
張角が病死した時期ですが、唐周が蜂起早々に裏切った事から、この話では蜂起直前に死んだことにしています。
陳珪が黄巾賊に対し何事か為したという記録はありませんが、地元の有力者として顔見せいただきました。今後出て来ますしね。
なお後漢書にはいろんな黄巾が蜂起したように書かれていますが、予州の黄巾はなぜか郡単位だし幽州黄巾とか楊州黄巾とかは結局何をやっていつ滅んだのかさっぱり判りません。なのでこの話では好きなように書いてます。
後漢書では荀爽は党錮が解けても辟に応じず袁逢の喪に服したとあるのですが、同時に王允の従事になって黄巾と戦っています。どっちやねん。当然後者を採用しました。
「中平」の改元は霊帝の「太平」への皮肉な気がするのですが、話には折り込めませんでした。