十常侍がのさばる物語開始です。
この話では第一次党錮が起きたのを延喜九年六月頃としています。第一次党錮は桓帝紀の十二月の項の後ろに記載がありますが、陳蕃が太尉を免じられたのが七月なので、党錮は七月以前の筈です。
また皇甫規の永康元年五月の上奏で李膺らが解放されているのも判ります。ここでは党錮された士太夫が解放されたのは正月以降としています。
このあたりの時系列は混乱している気がします。
党錮で士太夫を公職追放したのは劉淑の発案として描いてますが、
そんな記述は後漢書にはありません。でも誰か士太夫側が穏当な落し所として党錮に決めたと思います。宦官側は極刑にしたいでしょうから。
その担当は党錮されていない人間で陳蕃竇武でない人間として劉淑にしました。