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不安への心構え


 今月から全く別の仕事をやるようになった。
 誰しも「初めて」のことをする時は子供同然になる。
 私は見事にてんやわんやした。いくら覚悟はしていても実際に嵐が目の前にくれば、藁の家の子豚のようになるものだ。

 極端すぎるITの実態
 https://kakuyomu.jp/works/16818093077035462374

 では今までの経験が無駄だったかというと、そんなことはない。
 混乱や恐怖への抵抗力は、鉄火場の経験や事故への遭遇によってある程度は得てきた。
 主に読書によって得た世界観は、自分に今後訪れるであろう出来事が、如何に信じ難いものであっても、何らおかしくはないし、きっとそれは「完全には終わってはいない」ことを教えてくれた。

 池澤夏樹著「スティル・ライフ」の中で、語り部の「ぼく」が、佐々井という謎多き男から「自分の代理人として取引をしてほしい」と依頼されるシーンがあった。
 その取引の内容はかなり奇妙なものだったのだが、ぼくは承諾することにした。その時の描写がこれだった。



 妙なことになったと思った。しかし、その頃のぼくは妙な話をすべて歓迎するような心境にあった。
 自分と周囲の間にある一定の距離があって、何をするにせよぼくはその距離のところから周囲の世界を観察している。佐々井でさえ、その周囲の方に属した。
 そして、どんなことになってもぼくを巡る世界はぼくを傷つけることができない。そういう自信があった。



 この文章には不思議と励まされてきた。
 まったく根拠なんてない。仮に根拠があったとしても、そもそもスティル・ライフの住人と自分とでは状況や性格がまるきり違っている。
 けれどこういう気楽さ……というか、土壇場で力を抜くかのような、そういう振る舞いには、現実逃避と切り捨てるには勿体のない魅力があった。

 井上ひさし著「握手」の終盤、「天国はあると思うか」と訊かれたルロイ修道士が「あると信じる方が楽しいでしょうが」と答えた時のように。

 不安を覚えると、自分のまわりは悪性に満ちていると身構えたくなってしまうものだが、

 足元を冷静に見つめ、バランスを取ろうと努めること、
 世界は私一人を好んで追いつめるほど暇でも物好きでもないと考えること、
 そして根拠のない善性……痛烈な現実から少し距離をおいた先にあるものを信じること。

 それらが、形容しがたい混乱によって、我を見失わないための、おまじないとなっている。

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