部署が変わって、AIの可能性を模索していくうちに、私は確信に近い諦めを抱いた。
これは……私の創作も終わりに近いな。
私には人生で「これだけは書いておきたい」と思う作品がひとつだけあるが、遅かれ早かれAIはそれを再現するだろう、ということだ。
今や、好きなイラスト、好きな文章、好きな音楽、何でも作れるようになった。我さえ張らなければ、かなり快適な創作生活が送れることだろう。
もちろん著作権・肖像権の問題はあると思うし、AIによる大事件は将来的にひとつふたつ起こるのだろう。
その中でゆっくりと落としどころを見出す……となるとは思う。
ただ、コンビニやネットやスマホといった文明の利器、またはGAFAをはじめとしたライフラインを握る有名企業が、
(様々な問題を引き起こし、リスクを抱えながらも)必要不可欠な存在になっているのと同様に、AIの存在が今更ゼロになることは絶対にない。
そうなった時にやることは、きっと自分好みのエッチな画像を量産したり、その日の気分に最適な音楽を聞いたり、
慰めの言葉をかけてもらう体験をして一時孤独を埋める……ということになる。
笑いたければ笑えばいい。
だが、恐らく、そんな馬鹿らしい利用法を考えるのは私一人ではないはずなのだ。
ミラン・クンデラの「不滅」という本に、
人間の種類は、人間が取れる「仕草」の数よりも少ない
という一節がある。
今の例えで言うなら、電車内で誰もがスマホを触る光景は珍しくないが、その時、人間の種類はその1種類だけということなのだろう。
AIの登場は、きっと人間の種類を「仕草を減らす」という方法で、更に減らすだろう。
誰もがただ画面に向けて願望を入力するだけの存在になる。
そしてそれは叶う。
別に悪いことだとは思わない。
これを全員が扱えるなら、誰もが成し遂げるアイデアすら浮かばなかった「機会の平等」に一歩近づくだろう。
より優れた、より価値のある願望をかけた方が優れたものになるのか、
自分の身の丈にあった願望をかけるべきなのか、それは分からない。
とはいえ、(主観的な)人生への拘りはやはり残り続ける。だから、AIに頼れば秒で作成できる文章を、私は敢えて一生かけて不器用に書くのかもしれない。
今後AIの提案が当たり前になって、「どれが俺なんだ?」という疑問符が頭をもたげるなら、多分拘りに惹かれる方が自分ということになるのだろう。
その拘りもまた、誰かの仕草によって作られたものだと分かっていても。