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恐怖と闘うことについて


 以前に自分が書いた作品を定期的に見直している。

「今でも面白いな」と思うものもあるし「これは非公開でも……」と思うものもある。持ち前の貧乏性で滅多にやらないが。

 書いた当人として強く印象に残っているのが「ユメ堕ち」というホラー作品である。

 ユメ堕ち
 https://kakuyomu.jp/works/16816927859528081911

 理由は明確にわからない。ダウナーな話が好きだからかもしれない。

 昨晩、歯医者の待合室でぼんやりと眺めていたのだが、
 作中で主人公が「昔の人はなぜライオンと山羊を混ぜたのか」と疑問に思うシーンに差し掛かって、ふと思った。

 当時の人達は、恐怖を描きたかったんじゃないかと。

 神話には多くの怪物が登場する。人よりも遥かに強靭で、狂暴で、凶悪。そんな連中ばかりだ。日本にも鬼や河童などの妖怪という形で存在している。
 打倒されるべき恐怖。それは天災や自然の驚異かもしれないし、死をはじめとした生物の宿命かもしれないし、人が持つ悪感情かもしれない。
 それらを人の形をした英雄が力や英知で打倒する。そういう物語の筋書きが、昔から脈々と続く。

 目に見えない恐怖が一番厄介なのだ。本気を出せば一切の脈絡もなく突然死で物語にすらならない。(まあ、最近はそれを逆手に取って高次存在に為すすべなく殲滅される筋書きも頻出しているが)
 だから人々は恐怖に姿形を与えた。そして弱点を与えて攻略出来るようにもした。
 すべては恐怖を乗り越える勇気を作り出すためだ。

 恐怖は克服されなければならない。
 チート能力やS級仲間で完膚なきまでに圧倒したい願望があるのは、恐怖を打破することによる安心を得たいからなのかもしれない。
 そういう点では最大強化した状態で仲間達と一緒にギッタギタにするシナリオは「桃太郎」に近いかもしれない。
 まあ、皮肉なことに現代では「桃太郎」がいると、周りに「劣等感」という恐怖がばらまかれるのだが。

 人見知りをはじめとして、恐怖は様々なところにいる。
 恐怖を克服するか、あるいは眼前の恐怖が大したことではないと思えるようになると、ぐっと可能性が広がる。行動へのハードルが下がるのを感じられる。
 が、人の身体は面倒くさい仕組みで「恐怖を克服するために恐怖を与えなければならない」のである。
 友達と一緒に恐怖を味わってみたり、サプライズ的に恐怖を与えたり、一人で好きにやらせて恐怖に対面するのを待ったり。
 ご家庭によって対処法は様々だ。人が嫌がることをするな、とは言うものの、人生に嫌がることなんて腐るほどある。

 まあ、今までの半生を振り返ってみると、恐怖とは大抵ハリボテである。
 ビビると付け込まれるし、反抗しようにも緊張してしくじるが、無関心を装うと意外といける。
 恐怖が完全に過ぎ去ったのを確認した後、内心で「大したことなかったな」と呟く。これで一歩だけ前進だ。
 間違っても恐怖が過ぎ去る前に「大したことなかったわwww」とか口にしてはいけない。予想外のダメージは致命傷に繋がる。
 根管治療3回目のことだ。

1件のコメント

  • 『ユメ堕ち』とても興味深く読ませていただきました。もう数回読み直して「意味」をよく考えてみようと思います。
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