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読んだ本から考えたこと様々


 ここ数ヶ月で読んでみた本から、自分がぼんやりと考えてみた内容を載せる。
 作品にするにはあまりに抽象的、かつ散発的な話なので、近況ノートに載せる。



 資本主義の最大の誤算は「地球には確かに膨大な資本があったが、決して無限ではなかった」ことだった。
 当たり前だろと一蹴したくなるが、だとすると限界なき成長なんて無理な話だったのだ。厳しいではなく、無理なのだ。
 節目節目で限界だろと突っ込んだ人もいたが、その度に「限界が来てから考えようよ、そんなことより明るい未来だ」と先延ばしにし続け、
 そして限界が見えてきたのが今だ。だが今更急ブレーキなんてかけられない、そういう状態なのだ。

 その時点のMAXを標準値に考えた無茶な計画、ギブアップを期限ぎりぎりまで先延ばしにした挙句盛大に爆発する……
 私はその性質を持った事象を一つ経験している。炎上プロジェクトである。まあ、高い確率で破綻する。

 資本主義プロジェクトが破綻するとどうなるかといえば、えらい反動が出る。本で読む限りは制御不能の大災害が頻発、その場所の経済が破綻するかもだとか、
 ろくな資源が採れなくなって(これは石油石炭だけでなく、水や木といった身の回りの資源も含む)不況なり紛争が起こるとか、
 生態系が不可逆的に破綻し、孫世代にとって、美しかった自然はプロジェクター越しのフィクションになるとか……そういうものだ。

 まあ、そうなったら代表者が「我々人類の愚かさが招いた悲劇だ」と言い出しそうな気はする。

 資本主義がもたらした欠点は、隣人を信じられなくなったことだ。どこもかしこもライアーゲーム、囚人のジレンマ状態。
 クソだと分かったところで抜け出せない。譲歩した先から侵入される。
 公共の場にしたいのに私有地にされた挙句、「ここもいいなら、あそこもいいよね?」とずけずけ押し込まれる。

 そういう冷たさが資本主義にはある。資本を持っているもの勝ちなんだから、文句は言えないのである。


……とはいえ、資本主義はクソ、とか誰が広めたんだよと言うものでもない。

 人類が道具を作り、それを元手に発展する能力を持っていた時点で、エスカレートすることは目に見えていた。
 問題だったのは、進歩を止める基準もなかったし、メリットもなかったし、代替案もなかったことだった。

「目に見えないものは無関係」という思い込みが、人を徹底的に盲目にしてしまった。目に見えないものを否定しようとした科学は、皮肉なことに、目に見えないものの実在と、人との関係を証明してしまった。



 二元論は都合がよかった。断言されると人は安心するのだ。それに物語、筋書きも作りやすい。シンプルだし効率も良いのだ。いちいちグレーのことなんて考えなくていい。
 すべてが0か1で決まらないだなんて、経験的に分かっているはずだが。
 二元論(比較、区別)と言葉は相性がいい。「○○である」は「○○でない」を生み出す。
 例えば190センチの男性が1人立っている。その人を見たある人は「身長が高いな」と思うだろう。
 言葉がなければ、その人の主観的な経験だけで終わりだ。
 だが、「身長が高い」と言葉にすると、否定の「身長が高くない」や反対の「身長が低い」が自然に生まれてくる。

 これもごく当然だと思うのだが、赤の他人を一目みただけでその人が良いか悪いかなんて分かるはずがない。
 だが言葉の上ではそれが出来る。「自分は善い人(だと思っている)」⇒「その相手は自分と似ていなかった」と定義することで、空想の悪人を生み出すことが出来るのだ。

 先日オススメレビューさせていただいた作品では、SNS上での論争・炎上から人死にが出てしまった件を取り上げていた。

 負け犬の遠吠えが人を殺す
 https://kakuyomu.jp/works/16818023213802859536

 言葉は正しく魔法なのだと思う。魔を調べると「人を迷わすもの。人間わざでない、不思議な力をもち、悪をなすもの。」とある。
 言葉は使いようによっては虐殺すら招く、恐るべきものなのだ。




 アフォーダンスという概念がある。
 よく用いられる例に「紙」がある。紙は折ったり、破いたり、くしゃくしゃにしたり、ペンで書いたりといった利用法があるが、それは人間が考えついたものでなく、紙側が提供しているものだという考え方だ。
 紙が我々に「折らせる」ように振舞っているのだ。そして誘導通りに紙を利用している。
 今私が文章をタイプしているのも、作業しやすいよう照らされたライト、入力した内容が見えるモニタ、入力しやすいように配置されたキーボードの影響を受けているのだ。

 この考え方は、個人的には嬉しかった。
 道具と主人の関係は上下になく、相互の関係、パートナーシップみたいなものだと告げられた気がしたからだ。

 その他、アフォーダンスの性質に着目すれば、俗に「コツ」と呼ばれるものの解明にもつながるのかなと思った。


 人体は膨大な細胞で構築されているが、膨大なウイルスや細菌も共生している。彼ら(?)もまた、人間の免疫や臓器の活動を支援することがあるとのことだ。
 アフォーダンスの件も含め、どこからが自分でどこからが自分でないかは、はっきりと線引きがつかない。
 デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という言葉を遺したが、その発想から人間は良くも悪くも「個」を成長させてきた。

 だが、「我の思わない領分」の扱いにまで気が回らなかった。それが悲劇を生んだのだろう。



 パングロス博士は「世界は常に最善に出来ている」と述べた。
 カンディードは最初こそ心酔していたが、世界に起こる惨状を目の当たりにして遂に見限った。

「自分は現実をシビアな目で見られる」と先を見据える人達がいる。人は怠惰で裏切るものだ、みんなが勝者なんて幻想だ、それを加味して計画を立てよう……一見、地に足がついているように見える。
 だが、彼らがパングロス博士でないと言い切れるだろうか。慰めのように「敗者もまた、我々のためにいる大切な存在だ」なんて考えを持っていないか。

 度数の高い酒を呑んで、何もかも吹き飛んで、散々大暴れして、酔いが醒めて、荒れきった部屋を見て、「なんだったんだ」と振り返る。

 一体、今はどの段階なのだろう。
 素面なのか、酔いの中なのか、それすら分からないのだ。

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