「ネバーエンディングストーリー」というファンタジー映画があるのだが、紛らわしいことに今回はそれとは関係がない。
言いたいことはただ一つ。
ネバーエンディングストーリー(終わらない物語)という言葉は自己矛盾しているのではないか、ということなのだ。
何故かというと「物語」は終わるものだし、終わること自体が「物語」の必須条件なのだと思ったのだ。
どういうことか。
現実さながらの物語があったとして、それと、今を生きる自分の人生を比較した時に、はっきりと分かる差というのは、
人生は常に「続き」があると言うことなのだ。
例えば、自分がこういった半生を送ったとしよう。
1.裕福な家庭に生まれて、甘やかされてきた。その結果、幸福ではあるが性格は悪くなった。
2.学生時代は(お金の力で)クラスでブイブイ言わせてきた。その結果、途中までは上手くいったが、最後に人徳の高いB君に皆がついていって、孤立してしまう。
3.孤立した結果、お金や権力以外で夢中になれるものを見つけ、将来の夢として邁進する。ネット上で同志も見つけて仲良くなる。
4.が、その夢は高く険しいため破れることに。そのころ、親の会社も経営が厳しくなり、やむなくお手伝いに携わることに。
5.お手伝いは激務だったため、ストレスで倒れ入院となってしまう。その病室で相室となった女性と意気投合する。最高の幸せを得る。
6.退院の日、初めて対面するネットの同志が、実は学生時代にいじめていた人だったことが発覚する。
……
まあ、この程度でよいだろう。
上記例は盛り過ぎではあるのだが、人生とは得てしてこんな形式になっているように思う。
連鎖的……○○のおかげでXXとなり、そのおかげで△△となり、更にそのおかげで、と続く。更に正確にいうなら、一本の鎖に更に複数の鎖が絡まっているような状態でもある。
そういった因果の中で、人は明るくなったり、暗くなったりする。一個人もそうだし、全体もそうなる。
いつまでも明るいでも、暗いでもない。「続く」限りは落着することはない。結局どうなるのかは誰にも分からない。
物語はそうではない。というより、そういうワケにいかない。
テーマや目標を決めた上で「一部」を切り取り、自分の目的に合わせてハイライト編集する、それが物語である。(物語と表記しているが、エッセイでも記録でも変わらないだろう)
だから物語は終わることを要求している。そう思った。
とはいえ、バラバラに見えた物語のひとつひとつが、鎖を構成する鉄環となり、人生と同じく「続き」に向けて延びていくなら、
終わった物語達は、今を脈打つリズムを構築しているのかもしれない。