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不満を創作にぶつけることについて


 クリスマスの夜に一人、スーパーで半額で売られていたショートケーキをむしゃむしゃ食べている。
 時は過ぎていく。幸せな時、充実した時を過ごせている人もいれば、そうでない人もいる。
 私はどうか? クリームの甘みとイチゴの酸っぱさだけが食道を通っているだけだ。


 不満は創作の大きな原動力である。現時点で満ち足りているのなら、わざわざ状況を変えようとはしないだろうから。
 創作者には偏屈な人が多いイメージだが、進んで偏った道を歩く人も実際いるのだろう。「めでたしめでたし」を望まない人達だ。

 とはいえ、様々なきっかけや決意があって、その人達もやっぱり誰かと一緒になっていく。
 あれだけ尖っていた人が結婚や子育てをきっかけに丸くなるのは、守るべきものが出来た、自分だけの身ではなくなった、色々と忙しくなったという都合だけでなく、満ち足りたからというのが大きいのだろう。

 持たない人はどうか。飢えに飢えるということはない。そうでなければ、20代の半分近くも恋人ナシなんて事態にはなっていないだろう。今の時代、もはや人の温もりだけが大切でもなくなっている。
 様々なものが替わりに「かけがえのないモノ」になる時代だし、それはもう「かけがえのないモノなんてない」時代である。

 命の危機となる程の「飢え」はしないが「渇き」はする。
 何も残せない自分に対する文化的あるいは生物的な苛立ちや焦りか、
 交流し合うきらびやかな電飾を眺める絶縁体の羨みか、
 それともプレゼント交換で自分だけセンスもなければ丈も合わない洋服になった気持ちか。

 それらは大したものではない。苦笑いすればいい。寝れば忘れることだろう。そうだ、大したことはない……ずっと続くことさえなければ。

 でも、ふと、とっさに怖くなる。このイマイチが一生続くのかもしれないと思う。
 だから創作をする。自分が幸せになるIFを書いてみたり、あるいはディストピアで皆平等に苦しんでもらったり、ヒトコワでもバケコワでもいいが割とあっさり死んでもらったりする。

 創作に不満をぶつけるとは癒すこと、潤すことだ。
 まあ、口に含んだそれは海水で、飲めば飲んだだけ渇いていって、やり過ぎれば身体が干からびる麻薬でもある。


 クリスマスは終わる。サンタは今年も来なかった。

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