ジャムを塗ったパンをカーペットに向けて落とすと、ジャムを塗った面が下に来る確率の方がずっと高い。なお、その確率はカーペットの値段に正比例する。
上記は有名なマーフィーの法則だ。
人生というのは笑えるほど悲哀に満ちている。
ドラマは美男美女が出てきて、きちんと(良くも悪くも)盛り上がる物語も用意されている。
だが一度舞台から出れば、演者も客も監督も、誰もが悲哀の視線を受けることになる。
私は昔、漫画家になりたかった。と言っても画力はその時からてんでダメだったので、
棒人間に目や口だけつけたようなキャラ達が掛け合うギャグ漫画を書いていた。
その評判は中の下といったところだったが、中学生になって部活動をするようになってからは全く音沙汰がなくなった。
逆になりたくなかったものもあった。昔のドラマで出てきた悪役のおじさん部長。有名どころで例えれば、半沢直樹の大和田常務みたいな人物だった。(その人はもう少し線が細かった気がするが……)
部下を顎でこき使い、自分勝手に立ち回る。隙あればマウントと罵倒。二枚舌を巧みに使って上司の受けも良かった。
最後には確か成敗された気がする。
自分の人生を振り返ってみて、新しいマーフィーの法則を見つけた。
「人間は自分のなりたくなかったものになる」のだ。
いつの間にか、私はあれほど嫌がっていた上司キャラ(と言っても班長みたいなレベルだが)になっていた。
それも、ドラマの二、三話くらいで登場して、一話限りで打ちのめされて物語からフェードアウトする三下悪役みたいな立ち位置だ。
どういうことなのか。
「なりたかったものになれない」のはまあ分かる。倍率や素質の問題があるからだ。
だが、逆のものにぴったり当てはまるのはどういうことか。
改めて考えてみて思ったのは、
「ああはなりたくない」という感情には、少なからず同族嫌悪、自己嫌悪が含まれていたのではないか、ということだった。
傲慢で、狭量で、嫉妬深い。
子供の頃の自分でも自身の画力の低さや、能力の低さを薄々理解していたのではないか。
そのまま大人に成長したようなキャラを見せつけられて、その中に将来の自分を見た……
早い話、唾を飲んでむせたという感じだろうか。
間抜けである。
将来の自分を見ておきながら、結局はその通りになってしまったのだ。
「ここら辺泥濘んでるから気をつけてね!」といったガイドさんが真っ先に泥濘みに足を取られて転んでしまう(全身泥だらけだ)滑稽さに似ている。
そう言えばマーフィーの法則には「失敗の余地があるなら、それは失敗する。ありえないと思うほど失敗の確率は上がる」というものもあったか。
夢は叶わず、現実じゃ嫌なヤツやってる。
嫌なヤツにも私生活がある。
だからこんな事を考える。
日本人が一斉に喋れなくなったら、脳内で思った言葉とか、メモ書きを機械が読み取って、ボイスロイドを始めとした人工音声で発話するといった形式が会話手段になるのか。
そうしたら、日本人の声はその時から結月ゆかりやずんだもんやゆっくりボイスに置き換わるのか。
いつまで持つのか。成敗を受けるまでか、それともそれ以降もか。
……。
まあ、個人的な話で言うのなら、
創作者というのは、きっと、
パンが落ちたら、ジャムを塗った方が下になってほしいし、(どうせ汚れるなら)落ちた先はなるべくカーペットであってほしいという
困った習性があるのだと思っているが。