何か思うところがあったのか、学生時代、友達がいなかった理由について色々と考えていた。
正確に言えば、ニ、三人はいたのだが、その少ない友人達も向こう側から声を掛けたのに答えただけだから、自力で作った友人は一人もいないといっていい。
至った結論は「友人関係というものを根本的をはき違えてしまったから」となった。
私は初っ端から理想を求め過ぎた。経験がない、若い・青い人に良く見受けられる特徴だが、友情という言葉に高貴なものを感じてしまったのだ。
友人関係とは「お互いを尊重し、高め合う存在」と誤認していた。誤認というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、それは長い友人フローチャートのかなり後の方でやるべきことだ。
デフォルメされたオタク像に「人の話を聞かずに自分の趣味に関する意見を早口でまくしたてる(そしてドン引きされる)」というのがあるのだが、無論オタクに限った話ではない。
まずやるべきは、軽口をたたく、ふざけあう、愚痴を放つ、いざとなれば口論もする。その中で、少なくともこの人には踏み込んでもいいんだと経験する。
その後に初めて、自分の意見や信念、理屈を語ることが許される。
友人関係とは「互いを下げる」――お前は俺のこと馬鹿にしていいし、俺はお前のこと馬鹿にしていい条約こそがスタートダッシュだったのだ。
親しき仲にも礼儀あり、とはいうが、その「親しき仲」になるにはいつまでも冠婚葬祭みたいにはしてられないのだ。
子供の頃は蓄積された知識や情報が少ないので、気軽にふざけあう(喧嘩する)という手段がやりやすいのだが、年齢を重ねるにつれ、それも適わなくなる。
逆上がりと同じで、年を取ると難しいのだ。「馬鹿にされる」ことへの抵抗もあるし、相手の配慮もある。軽口が変なトコロを抉る可能性だってある。
何より相手は既に自分の「ネットワーク」を構築してしまっている可能性が高いのだ。
まあ、だからこそかもしんない。
学生の友情話とか、主と従者の絆とかは、わりかし効く。
いくら悲観主義を気取っても、ガラスの破片で指を切ると痛いのと同じだ。