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諦観の創作論


 私がこれまで読んできた「創作論」のなかで最も響いた文章は、
 ライターの田中泰延が書いた「読みたいことを、書けばいい。」という本の中にある「何を書いたかよりも誰が書いたか。」という章である。



 だれも読まない。なぜか。あなたは宇多田ヒカルではないからである。

 あなたがたとえば「ローマ帝国1480年の歴史」という事象に興味を持って丹念に資料を調べ、とてつもなくエキサイティングだったという心象を、自分自身で読んでもおもしろいウンチクやらギャグやらをちりばめた文章にしてインターネット上に載せても、十数人から、多くても数千人がたまたま目にして終わるだろう。

 だが、たとえば宇多田ヒカルが美味しかったロースカツ定食840円の話を書いたら、数百万人が争って読み、さまざまなコメントを山のように寄せ、豚肉の売り上げは跳ね上がるだろう。あなたのローマ帝国1480年はロースカツ定食840円に完敗だ。



 この、圧倒的な現実。
 分かりきっていた(が認められなかった)ことを、実に分かりやすい比喩で表現している。
 書いているものが、ローマ帝国であろうが、宇宙人の侵略であろうが、甘酸っぱい恋愛模様であろうが、関係はない。
 それに何百・何千・何万時間かけようと、資料を読み込むのに幾ら費やそうとも、いくら小説を書く技術を増そうとも、このはっきりとした現実が変わるわけではない。

 私は思うのだ。「質が良ければ誰かが評価してくれるよ」という意見は正しい。「宣伝を頑張って読者を釣りあげよう」という意見も正しい。

 だが、宇多田ヒカル(別にAdoでもヨルシカでも大谷翔平でも藤井聡太でもザッカーバーグでも誰でもいいが)がちらと投稿すれば、
 それらを遥かに上回るであろう影響が発生するのも自然なことだろう。誰も否定できない。

 実に皮肉なことではないか。Web小説は「あらすじ」と言われる程にタイトルを長くすることで、懸命に自分をアピールしてきたのに、
「藤井聡太」はgoogle検索で「f」と打つだけで「facebook」の次に出てくるのだから。勝てるわけがない。

 無論、数十年に一人レベルの逸材と一般人を比較することは、明らかに不適切ではあるだろう。
「藤井君よりFPSの腕は上の自信があるぜ!」という理屈もまた(冗談抜きで)良いと思う。健全に暮らしていくには、最低限の自信が必要だから。

 ただ、時たま「一体、創作論とはなんなのだろう」と思うことがある。

「どうあるべきか」なんて、どうやって決めればいいのだろう。
 母数が増えきった小説界隈の中で、一体、何が指標になるというのだろう。




 私の人生に大きな影響を与えた本に、ミラン・クンデラの「不滅」がある。
 この本がなければ、おそらく海外文学には一生縁がなかったと思う。

 色々と名言があるのだが、その中のひとつに以下がある。




 この世には、個人の数より仕草の数のほうが少ないことは明白である。そこでわれわれは不快な結論に導かれる。つまり、仕草のほうが個人そのものより個性的なのだ。
(中略)
 つまり、仕草のほうこそわれわれを利用しているのだ。われわれは仕草の道具であり、操り人形であり、化身である。



 これは「創作」「表現」「個性」というものの限界を指し示した一文であると思っている。
 この一文の正しさは、仕草を寄せ集めて作ったものが「AI」であり、ある程度妥当に人間の行為を模倣できていることからも明白だ。

 入る余地はあるのか。
 何が出来る。何が残せる。

「読みたいことを、書けばいい。」には、
 人と同じような内容を書くくらいなら、読み手に回った方がいいと書かれていた。
 誰も書いてなくて、自分しか書き手がいないから書くのだとも。


……実際、何かあるのだろうか。

 

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