こんにちは、大崎清夏と申します。詩人です。カクヨムのユーザーの皆さんのなかには、小説は何でも読むけど、詩はちょっと……という方もいらっしゃるかもしれません。でも実は、カクヨムにも詩作品はたくさん掲載されていて、興味深い挑戦がいろいろと試みられています。読み手が自由に解釈やイメージを膨らませて楽しめるのが詩のいいところ。なんですが、自由って言われても困る!という気持ちもわかります。今回は、詩の初めての読者にも楽しみ方が伝わればと、私的「補助線」を引くようなイメージでレビューを書きました。もちろん、私の読みかたが唯一の正解というわけではありません。この補助線を足がかりに、読者の皆さんが自分の補助線をどんどん足していくようにして、詩を味わってもらえたらと思っています。もしかしたら、大長篇小説に勝るとも劣らぬディープでスリリングな言葉の世界が、あなたを待っているかもしれません。
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詩集「優しい人の見つけ方」収録の、「コーン茶」。緑茶でも麦茶でもなく、コーン茶です。
コーン茶が「いつも冷蔵庫に入っていた」頃、ふたりは一緒に暮らしていたのでしょう。でもいま「僕」は「一人になって」、「君」はもういない。ふたりで暮らした日々のなかで、相手のことはすっかりわかった気になっていたけれど、「君」がいなくなったいま、飲みたいと思ったことのないコーン茶の味が今さらのように気になりだす。
飲んで味を確かめてしまえば、また「君」を理解した気になってしまう。だけどそんなことはしたくないと「僕」は思っていて、知らなかった部分を、知らないまま、受けいれようとしているようです。まるで、ふたりの暮らしを出ていくことを選んだ「君」の決断を尊重するように。
それは、「君」には届かない、自分だけで片を付けるための、ひとつの誠実さのようなもの。こういう複雑で繊細な心の機微は誰にでも心当たりがあるけれど、こんなふうにていねいに書くのは、案外難しいものだと思います。しんみりとした静けさの漂う、いい詩です。
(「自由に補助線を引いて愉しむ、詩の特集」4選/文=大崎清夏)
なにやら新しいことわざの誕生の瞬間に、私たちは立ち会っているようです。「池に海水魚」は「いけない」ことであり「ありえない」「おかしい」こと、と冒頭に用例が述べられ、読者はまずちょっと「夢十夜」ふうのシュールな池の世界に誘いこまれます。散文的な語りの中、池の管理方法のていねいな描写とともに池の周りの世界(猛暑、投げいれられる氷、服が孕む風)が徐々に見え始め、その展開のリズムの心地よさに、池と「私」の様子をずっと見ていたくなります。
が、この作品の見どころは後半の展開。読み進めると、「池に海水魚」の視座は池を覗きこむ者の側から池に棲息する者の側へとぐるりと反転して、それが「息苦しい」ことの喩であることがわかってきます。後半への反転を促す一蹴り、「引っ越し。学校の水質は私に合わなかった」の切れ味が見事(前半にある「幽霊みたい」な白い手の描写も、この後半への伏線=補助線として効いています)。池と涙を繫ぐ水の世界から深い寂しさが浮かびあがってくる、緻密な詩です。
(「自由に補助線を引いて愉しむ、詩の特集」4選/文=大崎清夏)
詩集「だから僕は制服を捨てた」の1作、「砂糖」。このレビューを書いている時点で本詩集は全1100話という圧倒的な作品数を収めていて、これは紙数を気にせずに書き継げるデジタルメディアのカクヨムならではの挑戦だと思います。さまざまな文体への挑戦が試みられていますが、「砂糖」は抑制のきいたソリッドな改行詩で、行ごとの言葉の飛躍の放物線がきれいです。
「砂糖のように甘い」海には蟻が群がり、遠方から蜜鳥や蜜蜂がやってくる。「砂浜には近づくな」という警告があり、蟻は仲間が死んでも平然と自分の仕事をこなしていて、ディストピアめいた雰囲気が作品を覆っています。現代社会を蟻に喩えること自体にはわかりやすさがありますが、海と蟻との取り合わせに妙があり、そのどちらにも無関心な子どもの残酷さ(大きく豊かなはずの「海」だったものが「溶け出したアイス」にまで矮小化させられる)が印象的です。
(「自由に補助線を引いて愉しむ、詩の特集」4選/文=大崎清夏)