淡水に馴染めないまま生きる海水魚=「私」の、切実な居場所考。

なにやら新しいことわざの誕生の瞬間に、私たちは立ち会っているようです。「池に海水魚」は「いけない」ことであり「ありえない」「おかしい」こと、と冒頭に用例が述べられ、読者はまずちょっと「夢十夜」ふうのシュールな池の世界に誘いこまれます。散文的な語りの中、池の管理方法のていねいな描写とともに池の周りの世界(猛暑、投げいれられる氷、服が孕む風)が徐々に見え始め、その展開のリズムの心地よさに、池と「私」の様子をずっと見ていたくなります。

が、この作品の見どころは後半の展開。読み進めると、「池に海水魚」の視座は池を覗きこむ者の側から池に棲息する者の側へとぐるりと反転して、それが「息苦しい」ことの喩であることがわかってきます。後半への反転を促す一蹴り、「引っ越し。学校の水質は私に合わなかった」の切れ味が見事(前半にある「幽霊みたい」な白い手の描写も、この後半への伏線=補助線として効いています)。池と涙を繫ぐ水の世界から深い寂しさが浮かびあがってくる、緻密な詩です。


(「自由に補助線を引いて愉しむ、詩の特集」4選/文=大崎清夏)