返却期限
ソコニ
1話完結 返却期限
一
地下書庫の空気は、いつも冷たい。
田端蒼太は段ボール箱を抱えて、書架の奥へと進んだ。大学図書館の整理バイト。時給は悪くないが、この地下書庫だけは苦手だ。照明が暗く、天井が低く、そして——古い本の匂いが、やけに濃い。
腕時計を見る。午後九時。閉館まであと一時間。
蒼太は書架の最奥に辿り着いた。ここは「長期未返却資料」の保管場所だ。返却期限を大幅に過ぎた本が、返却を待たずに除籍処分となったものたち。
段ボールを床に置き、書架を見る。
埃まみれの本が並んでいる。いつから誰も触っていないのか。蒼太は適当に一冊を取り出した。
表紙に文字はない。ただ、黒い布で装丁されている。
開こうとして——手が止まった。
この本、やけに重い。
蒼太は表紙をめくった。
最初のページ。そこに、貸出カードが挟まっている。古いタイプの、手書きのカードだ。
貸出日、返却予定日、借りた人の名前——
蒼太は息を呑んだ。
貸出日:1924年11月14日
返却予定日:1924年11月15日
氏名:████
ちょうど百年前だ。
そして氏名の欄——黒く塗りつぶされている。いや、塗りつぶされているのではない。文字そのものが、黒い。読めない。
蒼太は次のページをめくった。
また貸出カードがある。
貸出日:1954年11月14日
返却予定日:1954年11月15日
氏名:████
三十年後。同じ日付。そして、また名前が読めない。
次のページ。
貸出日:1984年11月14日
返却予定日:1984年11月15日
氏名:████
蒼太の手が震え始めた。
次のページをめくる。
貸出日:2024年11月14日
返却予定日:2024年11月15日
氏名:田端蒼太
今日だ。
そして——自分の名前。
「……は?」
蒼太は本を床に落としそうになった。
何かの冗談だ。誰かが悪戯で書いたんだ。
だが——
この貸出カードは、明らかに古い。黄ばんで、端が破れかけている。今日書かれたものではない。
蒼太は本の表紙を見た。
タイトルが書かれている。
『██の手引き』
やはり、伏字だ。いや——本当に文字が黒く塗りつぶされている。
蒼太は本を閉じた。
これは、まずい。何か、まずいものを見つけてしまった。
その時——
書庫の奥から、音がした。
足音。
誰かが歩いている。
ゆっくりと。規則正しく。
こちらに向かって。
蒼太は息を止めた。
この時間、書庫には誰もいないはずだ。蒼太以外。
足音が近づいてくる。
書架の向こう側。見えない。
だが、確実に——こちらに来ている。
蒼太は本を掴み、走った。
書架の間を抜け、階段へ。
後ろから、足音が追ってくる。
速度は変わらない。ゆっくりと。規則正しく。
だが、確実に——距離が縮まっている。
蒼太は階段を駆け上がった。地下一階、地上階。
出口のドアを押し開ける。
図書館のロビーに出た。
振り返る。
誰もいない。
足音も、消えた。
蒼太は荒い呼吸をしながら、手に持った本を見た。
『██の手引き』
持ってきてしまった。
いや——持たされた?
蒼太は本を開いた。
貸出カードのページ。
自分の名前。
返却予定日:2024年11月15日。
明日だ。
二
翌日、午前十時。
蒼太は図書館の前に立っていた。
手に、あの本を持っている。
昨夜、家に帰ってから本を読もうとした。だが——ページが開かない。貸出カードのページから先、すべてのページが貼り付いたように開かなかった。
無理やり開こうとすると、紙が裂けそうになる。
諦めた。そして今日、返却しに来た。
図書館のドアを開ける。
ロビーは静かだ。朝の開館直後、利用者はまだ少ない。
蒼太は返却カウンターに向かった。
だが——
カウンターに、誰もいない。
いや、いる。
奥の部屋から、誰かが出てきた。
司書だ。白いブラウス、黒いスカート。図書館員の制服。
だが——顔が見えない。
影になっている。照明が当たっているはずなのに、顔だけが暗い。
司書がカウンターに座る。
蒼太を見る。
いや、顔が見えないから、見ているのかどうかも分からない。
「返却ですか?」
声が聞こえた。
蒼太は本を差し出そうとして——手が止まった。
この声——
自分の声だ。
「返却ですか?」
司書が繰り返した。
間違いない。これは蒼太の声だ。
「……誰ですか」
蒼太が震える声で言った。
司書が首を傾げた。
「司書です」
蒼太の声で、答える。
「返却をお願いします」
蒼太は後ずさった。
「嫌です」
「返却期限は今日です」
司書が——自分の声が言う。
「延滞すると、罰金が発生します」
「そんなの——」
「一日につき、十年」
蒼太は息を呑んだ。
「……何が、十年?」
「あなたの時間です」
司書が立ち上がった。
蒼太に近づいてくる。
足音が、昨夜と同じ。
ゆっくりと。規則正しく。
蒼太は走った。
図書館の外へ。
振り返る。
司書は、ドアの内側に立っていた。
こちらを見ている——気がする。
そして、その口が動いた。
「明日も、お待ちしています」
蒼太の声で。
三
その日の夜、蒼太は本を調べた。
大学のデータベース、国会図書館の蔵書検索、古書店のサイト。
『██の手引き』という本は——存在しない。
いや、タイトルが伏字だから検索できないのか。
蒼太は本を見た。
表紙の伏字。
よく見ると——文字が動いている気がする。
黒い部分が、わずかに脈打っている。
蒼太は思い切って、伏字に触れた。
冷たい。
そして——何かが、触れ返してきた。
蒼太は手を引っ込めた。
本が——開いた。
勝手に。
貸出カードのページではない。その次のページ。
そこに、文章が書かれていた。
『この本を借りた者は、必ず返却しなければならない』
『返却しなかった者は、次の借り手を探す役目を負う』
『役目を果たすまで、あなたは図書館から出られない』
蒼太は次のページをめくった。
『返却した者は、自由になる』
『ただし——』
次のページが、また貼り付いている。
開かない。
「ただし、何だよ」
蒼太は呟いた。
その時、ドアがノックされた。
夜の十一時。誰が来る?
蒼太はドアを開けた。
誰もいない。
だが、足元に——封筒が置かれていた。
蒼太は拾い上げる。
開ける。
中に、一枚の紙。
『明日、返却してください』
蒼太の字で書かれていた。
いや——蒼太の字に似ているが、微妙に違う。まるで、誰かが真似たような。
蒼太は紙を裏返した。
そこに、もう一文。
『返さないと、僕が消えます』
僕——
蒼太は理解した。
あの司書は、自分だ。
いや、正確には——過去に返却しなかった「別の蒼太」だ。
そして、もし今の蒼太も返却しなければ——
自分が、次の司書になる。
四
翌日、正午。
蒼太は図書館の前に立っていた。
返却期限は今日。もう、逃げられない。
本を手に、ドアを開ける。
ロビー。
返却カウンターに、あの司書がいた。
顔は、やはり見えない。
蒼太はカウンターに近づいた。
「返却します」
本を差し出す。
司書が受け取った。
バーコードを読み取る動作。だが、この本にバーコードはない。
司書が何かを入力している。
そして——
「返却を受け付けました」
蒼太の声で言った。
蒼太は安堵のため息をついた。
終わった。
これで——
「ただし」
司書が続けた。
「貸出記録を削除するために、手続きが必要です」
「……手続き?」
「こちらへ」
司書が立ち上がり、奥の部屋を指差した。
蒼太は従った。
カウンターの奥、職員専用エリア。
そして——地下書庫への階段。
「降りてください」
司書が言った。
蒼太は階段を降りた。
地下書庫。昨日、本を見つけた場所。
司書が後ろからついてくる。
足音が響く。
ゆっくりと。規則正しく。
最奥の書架に着いた。
そこに——椅子が一つ置かれていた。
「座ってください」
蒼太は座った。
司書が蒼太の前に立った。
そして——
顔を上げた。
影が晴れた。
その顔——
蒼太だった。
自分と同じ顔。同じ目。同じ口。
だが、その目は虚ろで、表情がない。
「これで、あなたの番は終わりです」
司書が——もう一人の蒼太が言った。
「僕の番も、終わります」
司書が笑った。
初めて見る、感情のある表情。
安堵と、悲しみが混ざった笑顔。
「ありがとう」
司書が囁いた。
「僕は、もう——」
消えた。
文字通り、消えた。
蒼太は一人、椅子に座っていた。
そして——気づいた。
自分が、動けない。
体が、椅子に縛り付けられている。
いや、縛られているのではない。
ただ——動けない。
階段から、足音が聞こえた。
誰かが降りてくる。
蒼太は声を出そうとした。
だが、声が出ない。
足音が近づいてくる。
書架の向こうから、人影。
学生だ。バイトだろうか。
段ボール箱を抱えている。
学生が最奥の書架に来た。
蒼太と目が合った。
だが——
学生は蒼太を見ていない。
まるで、透明人間のように。
学生が書架から本を取り出した。
黒い装丁の本。
『██の手引き』
学生が本を開く。
貸出カードのページ。
蒼太には見える。
最後のページ。
貸出日:2054年11月14日
返却予定日:2054年11月15日
氏名:████
三十年後だ。
そして——
蒼太は理解した。
自分は今、2024年にいない。
椅子に座った瞬間、時間が——飛んだ。
次の借り手が現れるまで。
そして、現れた。
蒼太は立ち上がった。
体が動く。
学生の方へ歩く。
足音が響く。
ゆっくりと。規則正しく。
学生が振り返った。
蒼太を見た。
いや——蒼太の顔を見て、絶句した。
「あなた——」
学生が震える声で言った。
「三十年前に行方不明になった、田端蒼太さん?」
蒼太は答えられなかった。
ただ、歩き続ける。
学生が本を抱えて走った。
蒼太は追った。
階段を上がる。地上階。
ロビー——
そこに、返却カウンターがある。
蒼太は座った。
自動的に。
そして、気づいた。
自分の顔が——見えない。
鏡で見ても、影になっている。
口が、勝手に動いた。
「返却をお願いします」
自分の声が、勝手に出た。
そして、蒼太は理解した。
これが、返却した者の末路だと。
自由になる。
ただし——
次の借り手が現れるまで、三十年待たなければならない。
そして、その三十年は——
一瞬で過ぎる。
意識もない。
ただ、椅子に座って、待つだけ。
そして、現れたら——
回収する。
蒼太は自分の手を見た。
若いままだ。三十年経っているのに。
時間が、止まっている。
いや——
蒼太だけが、時間から外れている。
図書館の外から、声が聞こえた。
学生が誰かに話している。
「古い本を見つけて——中に自分の名前が——」
蒼太は立ち上がった。
ドアの外へ。
学生がこちらを見た。
「返却をお願いします」
蒼太の口が、勝手に言った。
学生が本を差し出した。
震える手で。
蒼太は本を受け取った。
そして——
貸出カードを見た。
最後のページが追加されている。
貸出日:2084年11月14日
返却予定日:2084年11月15日
氏名:████
また三十年後。
そして、その時——
蒼太はまた目覚める。
次の借り手を回収するために。
永遠に。
エピローグ
2024年11月16日。
大学図書館。
職員が地下書庫を点検していた。
最奥の書架。
そこに、椅子が一つ。
誰も座っていない。
だが、椅子の上に——
古い本が一冊置かれていた。
職員が手に取る。
『██の手引き』
開く。
貸出カードのページ。
最後のページ。
貸出日:2024年11月14日
返却予定日:2024年11月15日
氏名:田端蒼太
返却済みのスタンプが押されている。
職員は首を傾げた。
「田端くん、昨日から来てないな」
職員は本を書架に戻した。
そして、気づかなかった。
本の次のページに、新しい貸出カードが追加されていたことを。
貸出日:████年11月14日
返却予定日:████年11月15日
氏名:████
日付が、伏字になっている。
読めない。
まだ、来ていないから。
だが——
いつか来る。
そして、その時——
田端蒼太は、また目覚める。
返却カウンターに座って。
顔を影に隠して。
自分の声で、囁く。
「返却をお願いします」
永遠に。
(了)
返却期限 ソコニ @mi33x
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