03
車から出ると、川沿いの道には提灯が吊り下げられており、薄暗い夜道を灯が照らしていた。駐車場は案の定満車だったため、手前のところで降りて歩いていくことになった。
「やっぱり凄い人だかりやな。あ、あそこに屋台見える」
緩やかな坂道を登っていくと、多彩な屋台の色が鳥居の周りを彩っていた。大きな鉄板で熱されたソースの匂いが鼻をかすめ、食欲が湧いてくる。空気で膨らませたビニールのハンマーが歩いており、大人と手を繋いでいる小さな手だけが見えた。高校生くらいの浴衣姿の少女の一団が横並びに歩いており、それより少し若い少年が後ろからなんとか追い抜こうと人混みの合間を縫っていく。
懐かしい。最後に祭りに来たのは十年ほど前の話で、ほとんど忘れてしまったと思っていたのに、実際この目で見てみるとその時の記憶が呼び起される。提灯の明かりに、屋台の香ばしい匂い。浮足立つ人々の様子と、それとは対称に静かに堂々と立つ朱色の鳥居。その奥の社の重厚な空気感。そのすべてが頭の中で再現され、補完されていく。いつの間にか、先ほどの出来事など、頭の片隅に追いやられていた。
「あたしあれ食べたい」
茉莉はフルーツ飴の屋台を指さした。いちごやぶどうが飴色の膜で覆われ、屋台の光に照らされ光沢のある表面をみせて並べられていた。
「いいね。あ、列の最後尾こっちだよ」
思ったより回転が速く、すぐにわたしたちの番が来た。茉莉はいちごを、わたしはマスカットを選び、アルミのバランに包まれたそれを受け取る。
「うわぁ。めっちゃ可愛い。あ、こっちこっち」
道の端に寄って提灯の下に移動する。茉莉が巾着からスマホを取り出したので、撮影するのだと察し、右手に持っていた飴を反対側の手に持ち替えて、よりきれいに映るように位置を調整する。自分たちの足元と片手に持ったフルーツ飴をスマホのフィルターに映し、何枚かを記録に残す。わたしはデフォルトのカメラを使う派だが、茉莉は複数のアプリを使って器用にフィルターの僅かな色彩の違いを調整した。
「待って、もうちょっとこっち」
茉莉はわたしの左腕を掴み、カメラの中心に対象物が来るよう、少しだけ引き寄せた。赤いブレスレットがわずかに揺れる。茉莉の透き通ったいちごの赤とは異なり、手元のそれは赤黒く鈍い輝きを放っていた。
「あれ、手首のここどうしたの?」
カメラ越しにはわからないが、実際見てみると少しだけ跡が残っている。飴をもったわたしの手首を、そっとなぞった。とっさに右手に飴を持ち直す。
「……大したことないよ。さっき蚊に刺されて、かかないように爪でつけただけだから」
「あー、それあんま効果ないでしょ? まだかゆいなら、絆創膏あるけど?」
手持ちの巾着にはそういったエチケット用品も入っているらしい。
「もう治ったから大丈夫。それより、これ美味しいよ」
味はただの果物に飴をコーティングしただけの、代り映えしないものだった。しかし、こうやって祭りの場所で食べると、雰囲気に飲まれて特別美味しいものだと感じるようになる。
茉莉は飴のべとべととした表面に髪の毛が着かないように、細心の注意を払って一口かじる。
「ほんと、これおいしいわ」
嬉しそうに咀嚼して頷き、頬は手に持ったいちごと同じく、ほんのりと赤く染まった。同性ながら、絵になるな、と思った。きっと彼女は学校でも人気者なのだろう。人当たりもいい上に、数年ぶりに再会した従妹にもためらいなく声をかける。もし同じ高校に通っていたら、どうだろうか。間違いなく茉莉と友達になりたいと思ったはずだ。屋台までの通りを歩いていると、彼女はどうしてわたしを祭りに誘ったのだろうという疑問が頭に浮かんだ。友達も多いだろうし、同じ高校の同級生にも誘われていたはず。それなのに、なぜその誘いを断ってまでわたしの行動を共にしたのか。
深く考えなくても分かる。きっと祖母の頼みだろう。茉莉は昔から祖母によくなついていた。両親が離婚して落ち込んでいるわたしを元気づけるために、祖母が茉莉に祭りへ誘うように頼んだとしたら、この状況に説明がつく。彼女の性格を考えると、祖母の頼みを断らないことも容易に予想できた。従姉妹家族の仲は良好で、うちの一族と本当に同じ血筋なのか疑ってしまうほどだった。そのおかげか彼女は家族や身内のことを大事にする性格で、大好きな祖母からの頼みごとなら、快く承諾したかもしれない。もしわたしが断れば、友人グループに合流すればいい話だし、承諾すれば、それはそれで祭りを楽しめる。その場の空気に適応しようと必死に振る舞うわたしと違って、茉莉にはその場その場を楽しむ能力があった。彼女は心からわたしを心配し、同情しているのだろう。昔からずっと変わらない、気が利く優しいいい子だった。
マスカットの最後の一粒をゴリゴリとかみ砕く。ポケットからスマホを取り出し時刻を確認すると、思いのほか時間が経っていた。
「もう七時半だね」
「え、もうそんな時間? わたしたこ焼き食べたいんだよね。凜ちゃんは何がいい? もうすぐ花火大会の時間だし、どこかに座って食べよっか」
ちょうど、正面の鳥居から東の方角に公園があり、そこのベンチが開いているのが見えた。今のうちに席を確保しておかないと、すぐに埋まってしまうだろう。
「それなら、わたしはあそこの席とっとくよ。わたしの分のたこやき買ってきてくれない?」
「わかった! あ、これ持ってて欲しい! すぐ戻るから!」
茉莉はわたしの手の中にあるアルミのゴミを回収すると、来る前に買ったペットボトルのお茶を巾着から取り出して渡した。下駄をカラカラと踏み鳴らしながら人混みの中に消えていった。
公園は少し薄暗く、唯一の街灯の周りにはコバエや蛾が群がっていた。屋台周りの騒がしさから離れ、別世界のように静かで、大通りとこの場所は透明で薄い膜で遮られているように分断されている。祭りばやしの音が、距離はそれほど離れていないのに、遠くから聞こえているように感じる。ベンチにはすでに数人が腰かけていた。誰も多くを喋ろうとしない。人混みに揉まれて疲れてしまったのだろう。ペットボトルで茉莉の席を確保し、自分はその隣に座る。スマホを触るが、電波が悪い。さっきまでなにも問題なかったのにな。きっと周囲を覆い囲んでそびえたつ、山々のせいだ。仕方ない、茉莉が返ってくるまでぼーっと大通りを歩く人々の様子を見て、待つことにした。
しばらくして、見慣れた模様の浴衣がこちらに向かってくるのが、木々の間から垣間見える。反対方向から歩いてくる別の浴衣の三人組、赤や紺、薄桃色の浴衣の一団と合流し、彼女は足を止めた。高校の同級生だろうか、なにやら話し込んでいる。
やっぱり、誘いを断るべきだったかもしれない。祖母の負担を減らすために茉莉の誘いを受けたのだが、反対に彼女の負担を増やしてしまった。わたしは本当に恵まれている。こんなにも心優しい祖母や従妹家族が、わたしの心身を心配して寄り添ってくれるのだから。父と母だって、互いの関係は悪くとも、娘であるわたしには親として接してくれた。暴力をふるわれたこともなく、かといって放置されているわけでもない。彼らは大人として養育の義務を果たしている。学校でも、特にいじめを受けることなく、他愛もない会話ができる友人も複数人いる。家庭内でほんの少しの不幸があれど、それを凌ぐほど大きな幸福の上に立って生活している。だからわたしは彼らに感謝すべきだし、その好意を無下にするべきではない。
そう、頭の中では理解している。だけど、それとは別の感情が湧き上がってくる。
あー、なんか、めんどくさ。
背後にそびえたつ山々の木々が揺れ、生暖かい風がわたしの髪をなでた。肩につく長さの髪が煽られて、視界を遮るようにして揺れる。散らばった束をまとめるように手で押さえ、右側の耳にそれらをかけて、裏側に手を添えると、背後から聞きなれた音が聞こえた。
ジリジリジリ、ジーーーー。
先ほどの車内での会話を思い出した。なんや、今日はよう蝉が鳴いとるな。いや、ヒグラシやったら分かるけど、この時間帯にアブラゼミがあんなに鳴くのは珍しいで。
知ってるか?蝉がこんなにうるさいのは、求愛行動のためだって。
背後には、真っ黒な木々の影がそびえたっている。木々の隙間に、小さな小道が続いていた。立ち上がって近づいてみると、それは人一人しか通れないような狭い道だった。先は暗くてよく見えない。明るい方を振り返る。淡いクリーム色の浴衣は、まだ会話に夢中な様子だった。小道は山の二つ盛り上がりの合間にあり、石でかろうじで舗装されているが、長い間放置されていたのだろう、ところどころ欠けていて、よく注意していないと転びそうになる。両側には木々や植物が植わっており、腐った大きな枝が道を塞いでいた。それを跨いで前を進んでくと、背後からかろうじて差し込む光がだんだんと薄くなっていく。次第に視界が開け、小道を抜けると寂れた道路に出た。神社のある右側の方向に視線を送ると、すぐ目の前に金属のバリケードが神社の境内に続く雑木林を囲んでいた。色が落ちた文字で立ち入り禁止のパネルがかけられている。街灯などの電気の明かりはない。しかし、その代わり月の光がかろうじて周囲を照らす。暗闇に目が慣れたのだろう、その文字を読むことが出来た。神社とは反対方向の道を歩く。祭りに来た時と反対方向を歩き、わずかな下り道を歩いた。
山間の道路なため、影になっていて見えにくい。とはいえ真っ暗というわけではないので、道路の白線を辿って下っていくと、いつの間にかT字路に出た。こんな場所があるなんて初めて知った。東側の道を行くと神社のある大通りと合流するだろう。だけど、反対側には何があるのだろう。気が付くと、より狭い一本道の方に歩いていた。木々の距離が近くなり、影の濃度が高くなる。数分ほど歩いていると、右手の山の方に石の階段が先に続いているのが分かった。
ジリジリジリ、ジリジリ。
ええか? 絶対に、あの山に近づいたらあかんで。
しゃがれた祖母の声が頭に響く。階段の先にはまだ道が続いており、先は暗くてよく見えない。少し、少しだけ確認したらすぐに戻ろう。何があるか、手前で見てみるだけなら問題ないだろう。そう、少し、ほんの少しだけ。
好奇心は猫をも殺す。有名なことわざだが、今の状況にも当てはまるだろうか? この決断を後から後悔することになるかもしれない。猫だけでなく、自らの身を滅ぼすことになるかもしれない。しかし、前へ進む足は止まろうとしない。一歩一歩石の段差を踏み締め、先にある「何か」に向かって歩み出す。蝉の声は止んでいた。
空蝉がないた夜に 筒井きわ @kiwa_o0o
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