02

 何もしたくない。何も考えずに時間を潰していたい。たぶん、うつ病とかそういった精神疾患ではないと思う。ただ、最近の騒がしい日々を過ごすなかで、少しずつ疲れてしまったのだと思う。運転していたのは母で、わたしはただ車に乗せられていただけ。歩いたのもほんの数分なのに、倦怠感がどっと押し寄せてくる。古い日本家屋に似合わない、新品そのもののクーラーは数分も経たず部屋全体を冷やしていく。静かだ。ここには還暦を過ぎた祖母とわたししかいない。クーラーから流れる気流の音と、遠くで鳴く蝉の声のみが耳に届く。瞼を閉じ、ソファーと一体になる。ずっとこうしていく内に、誰かが全てを解決してくれたらいいのに。

 母がわたしを実家に預けたのは、離婚調停を終えて、今の私のように一人になりたかったからなのかもしれない。父の隠し事から始まり、母の不信感が募り、ここ数年の家庭内の空気は湿度が八十パーセントを超える梅雨の時期よりも息苦しいものだった。その中でも、わたしは自分の出来ることをしてきたつもりだ。学校では少なくとも平均以上の成績を維持するよう努めてきたし、教師の前では問題を起こさない模範生。同級生の中では目立ちすぎず、かといって静かすぎないように、適度な距離を保ってきた。つまらない学校生活を上手くやり過ごすための技術は身に着けたつもりだ。わたしは主役じゃなくていい。いや、むしろその方がいい。わたしの周りの人間が、勝手に喜んで盛り上がってくれるなら、学校側の人間も、家族も、他のクラスメイトも、今を最大限に楽しもうと努力する健常な高校生だと、彼女たちと同類の人間だと勝手に認識するだろう。楽しくないのに楽しむ努力をするより、努力する高校生を演じる方が、上昇志向を分娩台に置いて生まれてきた私にとってはずっと楽だった。

 だけど、たまに全てを放り出して一人で逃げたくなる。周囲の人間のわたしに関する記憶を全て消去してしまいたい衝動に襲われる。両親の離婚が決まってから、この衝動は顕著に大きくなっていった。将来の夢を聞かれても、夏休みにしたいことを聞かれても、自分が何を軸に生きて行けばいいか分からない。母の荒んだ物言いも、父の責任逃れの行動も、祖母の純粋な好意も、そのすべてが鬱陶しい。まどろみのなか、重たい瞼を閉じる。先ほどみつけた蝉の抜け殻と同じような格好で、いつの間にか眠ってしまっていた。

 目を覚ますと、時計の針は午後の十八時を回っていた。いつの間にか、昔好きだったキャラクターのタオルケットが下半身にかけられている。テーブルに置いてあったコップや手を付けていなかった小袋の菓子類さえ片付けられて消えていた。祖母が夕食の準備をしているのだろう、キッチンの方から物音が聞こえてくる。気温が下がり、少し肌寒く感じて冷房の設定温度を上げ、再びタオルケットに包まれた。しばらくスマホを触ったり、テレビを点けてぼーっと過ごしていると、玄関の方で何やら賑やかな声が聞こえてくる。足音がこちらに向かってきて、ドアから見慣れない女性が顔を出した。

「すっごい久しぶり? 元気やった?」

「……もしかして茉莉ちゃん?」

 一瞬誰だか分からなかったが、よく見れば従妹の鈴木茉莉だった。年は向こうが一つ上で、小学生の頃はよく遊んでいたが、中学、高校と年を重ねるごとに会う回数が減っていった。おそらく五年は姿も見ていない。従妹だとすぐに気づかなかったのは、久しぶりに再会したということもあるが、彼女の姿がカジュアルなものではなかったからだ。目元はキラキラとラメが光に反射し、リップもつやつやと光沢がある。髪は緩くウェーブがかかって、髪にかかる程のセミロングは後ろで緩く三つ編みにされていた。抜け感を演出する為、さりげなく残されたおくれ毛などは、見た目のナチュラルさとは異なり、ケープやワックスで塗り固められている。

「一瞬誰か分かんなかった。浴衣、綺麗だね」

 え、そうかな? と、クリーム色に淡い桃色の花があしらわれている袖を揺らしたあと、キャラもののタオルケットを膝にかけているわたしに視線を送った。

「あ、そうだ! 一緒に浴衣着て行かない? お姉ちゃんの浴衣が残ってるから、着付けしてあげるよ」

 ああ、だから浴衣を着てたんだ。記憶を辿ると、小学校低学年くらいの年に茉莉とその家族と一緒に祭りに行った記憶がある。よく覚えていないが、そこそこ規模の大きい祭りだったはず。

「うーん、どうしよっかな……」

 身体は完全にオフモードに入っていたため、あまり気乗りしなかった。食欲も湧かないし、正直断ってしまいたかった。その様子を察したのか、無意識なのか、茉莉はわたしの弱いところを突いた。

「屋台もいっぱい出るし、八時から花火大会もあるって! 夏だし思い出作ろうよ! おばあちゃんだって、夜ご飯準備する手間省けるし、その方が楽しいでしょ?」

 そこまで言われては、断るのも気が引ける。茉莉の提案を受けることにしたが、浴衣の着付けについては丁重に断った。今着ている服も、一応外出用のものだし横に並んでいて恥ずかしいと思われるような恰好ではない。それに今から着付けやメイクをするには時間がかかるし、何より着付けという行為が面倒くさい。

「まぁ、絶対着ないといけないってわけでもないしね。」

 少し残念そうというか、肩透かしを食らったような表情を浮かべたが、目の前の少女はすぐに先ほどと同じような調子に戻った。

「お父さんが車で送ってくれるって! 外に車停めてあるから、準備が終わったら来てね」

 先に行ってるから、と言い残してそそくさと部屋から出ていく。部屋の電気を消して居間に出ると、祖母は座椅子に座ってテレビを見ていた。横を通り過ぎて洗面所で軽くメイクをして、髪を整える。居間に戻ると、祖母が貯金箱から金を出してお小遣いを渡してくる。

「茉莉ちゃんとこれで美味しいものでも食べ」

 少し申し訳ない気持ちになったが、断る方が失礼だと思って五千円札を受け取った。

「今日は花火大会もあるからな。気晴らしに楽しんできたらええ」

 祖母はもちろん、両親の離婚の件を知っている。そのせいで元気がないのだとずっと心配していたのだろう。だが、それも要らぬ世話だと感じてしまう。祖母がわたしをどういう目で見ているのかは、今日会った時から予測できていた。だけど、なるべくその話題を避けてきたのは、その話題を振られたときに垣間見える、祖母の心配や憐れみの眼差しを鬱陶しいと、その感情に対して罪悪感や自己嫌悪を抱えることになると分かっていたからだった。

「うん、ありがとう。おばあちゃんにもお土産買ってくるね。何がいい?」

「おばあちゃんのことは気にせんでいいよ、剛が買ってきてくれる言うてるからな」

 剛は茉莉の父親の名前だ。母の兄でもある。従妹家族は祖母の家から三十分ほどの場所に住んでおり、母が実家に寄り付かないため、祖母の様子を定期的に見ているのも彼らだった。

「そっか、じゃあ行ってくるね」

「ああ、そうや」

 急に何かを思い出したように、襖を開けて隣の部屋に歩いて行った。隣の部屋には仏壇がある。十年以上前に亡くなった祖父の遺影が飾られている。わたしはこの部屋が怖かった。小さい頃は祖母と茉莉と一緒にこの部屋で川の字になって寝ていたが、仏壇の金色の仏様の像が、祖父を始め亡くなったご先祖様の写真が、私たちを見つめているような気がしたからだ。祖母は仏壇の前に座ると、下にある引き出しを開けて何かを探し始める。

「もう昔のことやから覚えとらんかな、祭りがある神社の前に大きい山があるんやけど、その山の中には湖があってな」

 探し物を見つけたのか、奥の方から何かを取り出した。

「その場所はあんまりええこと聞かんのよ。祭りの日は特に近づいたらあかんって。最近の人は知らんやろうけど、昔はようおばあちゃんのお父さんから口酸っぱく言われたんよ」

「ひいおじいちゃんから?」

 祖母は紫色の巾着を取り出すと、赤い数珠のような物を取り出した。

「そう。だから、あんたは大丈夫やと思うけど、一応、な」

 祖母はそう言いながらわたしの左手首を持ち、そのブレスレットを手に通した。冷たく、 重量感のあるそれは、深い紅血をしており、どこか血の色を連想させた。

「これ何?」

「ええか? 絶対に、あの山に近づいたらあかんで」

 祖母は答える代わりに、とられた左手を強く握った。祖母の乾燥した爪が手首の血管が透けて見える場所に突き刺さる。とっさに振り払おうとするが、しわだらけの枯れ木のような腕からは想像もできないほどの怪力で、まったくと言っていいほど動かない。痛い、おばあちゃん、痛いって。祖母が力を緩めることはなかった。訴えるように顔を見上げると、二つの黒い目がこちらを見つめ返した。微笑みの表情がそぎ落とされた皮膚は、古い木の表面のようで、笑いじわのある目元や口元は、いっそうと影を濃くした。目の前の老婆は、わたしの知っている祖母ではないようだった。無機質な目には、わたししか映っていない。

「ああ、ごめんな」

 穏やかな表情に戻ると、手首をつかんでいた力を緩めた。握った部分に顔を近づけて、ああ、どないもなっとらんな、塗り薬塗っていくか、と先ほどとは打って変わって心配そうに確認しだした。振り払って、逃げるように玄関へ向かう。外に出るとシルバーの車が停まっているのが確認できた。外は少し薄暗い。すぐさま茉莉たちのいる車内に乗り込む。

「そんなに急なくていいのに」

 茉莉と叔父さんは少し驚いたようにこちらに目をやったが、すぐに祭りの話へと戻っていった。よかった、こちらの様子に気づいていない様子だった。

「もう七時前か。駐車場開いとるかな」

 今のは何だったんだ。いまだに心臓の音が鳴りやまなかった。明らかに、祖母の行動は常軌を逸していた。穏やかな祖母がなぜ? 額に変な汗が浮かんだ。

「手前のところで降ろしてくれたらいいよ。それかコンビニの駐車場か」

 まさか、本当に「言い伝え」というものを信じているのだろうか。親から聞いていた祭りの夜の話を……。だから、わたしにこの赤いブレスレットをお守りとして渡したのか?

「コンビニも開いとるか微妙やな……まぁ、適当にどっかに停めるわ」

 いや、それは無いか。バクバクと鳴る胸に左手で添え、呼吸を整える。茉莉たち親子の会話を聞いていると、全身に広がった悪寒が少しずつマシになっていった。

 きっとわたしの思い過ごしだろう。さっきは祖母の見慣れない姿を見て、つい動揺してしまったが、よく考えると祖母はわたしに危害を加えようとして腕を掴んだわけではない。祖母の年齢はもう七十歳を過ぎている。日頃の畑仕事で鍛えた腕力が、調整できなくなったり、手の感覚が鈍くなっているだけの可能性もある。また、年を取って妄想や恐怖心も強くなったのかもしれない。そう考えると、先ほどの行動も腑に落ちる。街灯の光が窓に差し込んで、胸元に添えていた左手を照らした。

「あれ、そのブレスレットどうしたの?」

 茉莉は不思議そうに、怪しげに輝く赤いブレスレットを眺めた。隠すように、右手でそれを覆う。

「これは……」

 ジリジリジリジリ。

 不意に、アブラゼミの鳴き声が車内に響いた。窓の外を見ると木々が生い茂っており、それは数時間前に通った山際の道のものだった。もう夜が近いのにも関わらず、蝉は休むころを忘れたように鳴き続けている。

「なんや、今日はよう蝉が鳴いとるな」

 ジリジリ、ジリジリジリ。

「まだ外が明るいからじゃない?あの辺は前もうるさかったし」

「いや、ヒグラシやったら分かるけど、この時間帯にアブラゼミがあんなに鳴くのは珍しいで」

 ジリ、ジリ。

「ふーん、そういうもの?」

 ジリ。

「異常気象で生態系が変わっていったんかな」

 リ。

「えー。さすがにたまたまじゃない?」

 茂みから離れていくと、次第にその音は遠のいていった。治まっていた心音が、再び脈を打つ。そう、きっとわたしの考えすぎなんだ。

「それより、お祭り楽しみやね」

 相手に悟られまいと、冷静を装って微笑み返す。手首の赤いそれが、かすかに光ったような気がした。

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