第2話 何のために生きたのか
目が覚めると、真っ白い天井に格子状の線が引かれていた。
隣には鉄パイプで組まれたベッドがあり、白いシーツの上に茶色の毛布が置かれている。
「ここは……」
どうやらあの世ではない。
鼻を刺すような消毒液の匂いから、おそらく病院だと思った。
だが、見慣れた日本の病院とは違う。設備があまりにも整っている。
もしかすると、ここは敵国の施設なのかもしれない。
逃げなければ。そう思って身体を起こそうとしたが、全身が縛られたように動かない。腰を浮かすことすらできなかった。
コツ、コツコツ、コツ。
途方もない絶望の中で、廊下のほうから足音がした。
誰か、来る。
扉が開き、初老の男が入ってきた。白衣に軍帽を被った、どこか日本人離れした顔立ちの医者だった。
「目が覚めたようだね。いや、無理はするな」
男は日本語でそう言った。
「君のその奇妙な褌が無ければ、私たちは君を見つけられず、そのまま船で轢き殺していたかもしれない」
そう言って、彼は俺のベッドの隣に畳まれている褌を指さした。
聞けば、彼は日本人と米国人のハーフで、今はこの船の軍医をしているという。
俺は泳いでいる途中で気を失い、敵国の艦に拾われたらしい。ここはその船の医務室だった。
「……国に帰せ。敵国の捕虜になるくらいなら――」
声を振り絞ると、医者は軽く手を上げて俺を制した。
「心配しなくてもいい。戦争は終わったよ」
俺は、その言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。
「君は一週間ほど眠っていた。その間に、本国から終戦の報せが届いたんだ。だから、もう恐れることはない。身体を癒して、日本に帰るといい」
その瞬間、世界が歪んだ。
中心から外側に向かって、景色が丸くねじれていく。
――あれは、のちに新聞社で見た魚眼レンズの写真に、よく似ていた。
「先生、目が……!」
俺が叫ぶと、医者は静かに俺の手を取った。
「その鱗のような肌、水かきのような指。……まるで魚だな」
医者は冗談のように笑ったが、俺は笑えなかった。
あの日、海を渡ろうとして魚になりたいと願った魂は、皮肉にも俺を魚のような人間にしてしまった。
水の中でしか息ができないような、そんな人間に。
それからの人生は、浅瀬でも息が詰まるような日々だった。。
俺が国に帰ったのは、終戦から次の年の五月だった。
仕事もなく、ただやることといえば、島から持ち帰った仲間の遺品を家族のもとへ届けることだけだった。
軍の知り合いに掛け合い、冷たい視線を受けながらも、なんとか住所を聞き出した。
だが、訪ね歩いた家々では「そんな人は知らない」と追い返されることもあった。それどころか、魚に成った俺の身体を見て悲鳴をあげ、石を投げて追い払おうとする者もいた。俺のいた部隊が全滅したと報道されているからだろうか。それとも俺が化け物だからだろうか。誰も、俺を生き残りだと信じてくれる人はいなかった。
守ろうとしてきたはずのものに、いらないと言われる。
日本は、もう変わってしまっていた。そして、俺の帰る場所すらどこにもなくなっていた。
街には、片足の白服を着た退役軍人が、ザルを前に物乞いをしている。
風のない午後、遠くで焼け焦げた臭いがした。どうやらゴミを焼いているらしい。
その火を見ると、島で殺された仲間たちの断末魔を思い出す。俺は、逃げるようにしてその場を立ち去った。
そうして自分のやっていることに意義を見出せないまま、ただの物乞いとして仲間の家を訪ね歩く毎日は続いた。
誰も俺を認めてくれず、一つ、一つと背中の遺品は減っていった。そうして最後の軍服の端切れが残った。同期の斎藤伍長のものだ。
この男は、よく笑う男だった。地獄の中でも、何でそんな顔でいられるのかと聞いたら「笑わなければやっていられないこともある」と言われた。
確かにそうだと思った。
最後の家に辿り着くと、また焚き火の匂いがした。
若い女が、赤いべべを着た娘と一緒に芋を焼いている。斎藤伍長の妻と娘だろう。
「ごめんください」
俺が声を掛けると、二人はきっとこちらを睨んだ。目立たないように顔を布で覆っているからより不審に見えたのかもしれない。
「どなたですか?」
気の強そうな女だと思った。斎藤伍長の妻らしい。どんな地獄でも笑って生きていきそうな芯の強い目をしている。
「驚かせてすみません。斎藤伍長の服を……持ってきました」
俺はそう言い、背中の襷にまいておいた軍服の切れ端を取り出す。
斎藤伍長の妻は、俺を見て軽蔑しなかった。石を投げて追い払ったりもしなかった。彼女は俺と切れ端を交互に見やり、すっと立ち上がって俺の手を握る。
そうして、斎藤伍長の妻は俺の手を何度も何度も撫でる。次第に彼女の目には涙が溜まっていった。
「……
斎藤伍長の妻が小さく名を呼んだ。震えた言葉が、彼女の目から雫を落とす。
「すみません、自分はこれで――」
俺は、彼女に遺品を渡して出ていこうとした。
彼女に背を向けて門を出ようとすると、彼女が俺の背中に顔を当てる。
「生きてくれて、よかった……!」
そしてそう言って、わんわんと泣きだした。
焚き火のぱちぱちという音だけが、夜気の中で弾けている。
島に向かう前から死ねと言われ続けた俺には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
けれど、「生きる」という言葉をゆっくり嚙んでみると、地に足の着いた、確かな噛み応えを感じた。
「そうです、俺は――」
そう言って、俺は懐から皴の入って色褪せた褌を彼女に見せる。
「これは、勇君のものを繋げて作った褌です」
そう言って、褌を両手に掲げると、乾ききった俺の目からも雫が垂れてきた。
涙の向こうに、勇の妻の顔が揺れていた。彼女もまた、目を赤くして泣いていた。
俺たちは、二人で泣いた。泣きはらして、俺はこの日、俺の戦争が終わったのだと思った。
勇の妻から焼き芋をもらい、俺は家を後にする。
焼けた芋を抱えながら、何度か振り返ると、勇の妻がいつまでも手を振っていた。勇の娘を、口をきっと結んだまま、焼き芋を大事そうに抱えている。何だかその姿が、勇に重なって見えた。
彼には、待ってくれる人がいた。
俺は、どこへ行くかは分からない。
けれど――生きる、という言葉に少しだけ身を預けてみようと思った。
庭の池で魚が跳ねた。遠くの畑から風に乗って何かを燃やす匂いが流れてくる。
それはもう、焦げた肉の臭いではなかった。
歪んでいた俺の視界が、今は遠くまではっきりと見えている。
【短編】巨影を擬く 鷹仁(たかひとし) @takahitoshi
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