【短編】巨影を擬く
鷹仁(たかひとし)
第1話 何のために生きるのか
焚き火の匂いはもうしない。焦げた肉と泥の臭気だけが、夜の島に漂っていた。
俺は仲間の亡骸を背にして、布を裂く。戦友の軍服の切れ端を包帯に縫い込み、肩から襷のように掛けた。これは形見であり、呪いでもある。
腰に巻いた褌を解いた。自分のと、仲間の。それを歯で糸を噛み切り、縫い合わせていく。布は白く、月明かりを浴びると巨大な魚の腹のように光った。
この影を
死ぬこともできず、生きることもできない俺が。
「ここいらは
垂らした
隊長のしわがれた声を思い出しながら、俺は褌を繋ぎ合わせる。鮫が俺を水中で見たときに大きな魚だと勘違いするくらい長く。隊長の分、同期の分……。焼け焦げて散り散りになった破片をかき集めたそれは、十尺にもなろうかという長さになった。
俺は両手に掴んだ褌を、月に向かって高く捧げる。祈るように。みんなの力をお借りしますと。そして、恥を忍んで生き残る裏切り者を、どうかどうか赦してくださいと。
「俺が死ねばよかったのだ」
頭の中では、そのことばかり考えている。俺には家族も、愛する人もいない。戦争孤児で、自ら志願してこの島にやってきたはずだった。
「隊長殿、すみません。隊長殿――」
褌を締めながら、それぞれ繋ぎ合わせた持ち主の名前を一人一人唱える。
俺は役立たずだ。仲間の楯にも成れない臆病者。垂れ下がる褌の重みと圧迫感が、地獄から伸びる手のように俺を縛っていた。
海へ向かって歩く。振り返ると、あの夜の光景が、ふと脳裏をよぎった。
この島で、俺たちを待ち受けていたのは敵兵たちの機銃掃射だった。
進軍の合図とともに泥に脚を取られて膝をついた俺の目の前で、仲間たちが真っ先に突撃する。こちらの動きに合わせて金切り声をあげる機関銃が、湿った風を切り裂いた。
こちらの威勢を、硝煙の臭いと無慈悲な弾丸が吹き飛ばす。無感情な砲火が痛ましい悲鳴ごと俺たちを薙ぎ払った。一人、また一人と着弾した傍から赤黒い血が舞う。俺が立ち上がるまでの数秒間で、死地を脱するために先陣を切って突っ込んで行った仲間の破片がそこいらに飛び散った。
「何であすこで死ねなかった」
俺は口先だけの男だった。死ぬのが怖くて逃げ回っていた自分が生き延び、国に家族を残してきた隊長と戦友は死んだ。
「もはや世間様に顔向けは出来まい」
そう思いながらも、死ねない。背中に貼り付いた仲間の形見が、熱感を持って俺を生かしている。残酷だと思った。誰も見るもののいなくなった夜に、この形見を故郷に届けるという執念のみが残った。
褌を締め、波に脚を浸ける。夜の海は冷たかった。本州の南のはずだが、海流の影響か、ここら一体は暖流に避けられている。その上、敵に見つからないための夜間作戦だが、月明かりしかない海の紺碧は俺を心細くさせた。
島がどちらにあるのかわからない。もしかすると、泳いでいる途中に潮に流されて方向を誤ってしまうかもしれない。それに、自分の下に鮫が泳いでいるかもしれないのだ。隊長のいう通りに褌を尾のように長く漂わせているのが、どの程度の効果があるのか知らない。それでも、俺は巨大な魚として岸に着くまで気の遠くなるような距離を泳ぎ続けないといけないのだ。
泳ぎは得意だった。親は漁師でよく海に出ていたから。平泳ぎに関していえば、軍の訓練でも一番速い自信があった。
沖に出るにつれて、波はより高く俺を飲み込むように打つ。先ほどから黒い影が俺をずっと尾けている様な気がする。それが鮫か魚か、それより恐ろしい何かか分からぬまま、俺はただひたすらに真っ直ぐ泳いだ。
何度水を飲んだか知らない。意識も絶え絶えになりながら泳ぎ続けていると、段々と下半身に力が入らなくなってきた。脚を誰かに引っ張られているようだ。身体ごと底に沈んでいく。もしかしたら俺が見捨てた仲間たちが、俺を地獄に引き戻そうとしているのかもしれなかった。
「南無阿弥陀仏……、南無阿弥陀仏……」
念仏を唱えながら、俺は必死に腕を掻く。するとしばらくして、俺の脚に絡み付く違和感がすっと取れて元のように動くようになった。
ほっと息を吐く。代わりに、先ほどよりも高い波が俺にかかってきた。
それは波ではなかった。仲間たちの怨嗟が、魚の形をして押し寄せてくるように見えた。影は亡者の光を宿しており、夜ごと俺を呑み込もうと大きな口を開ける。
このとき、俺は悟った。ああ、俺は魚に成れなかったのだと。
「俺も、そちらに行きます」
影が俺を呑み込んだ。意識と共に、俺の身体は上下の分からない闇の中に沈んでいった。
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