第36話「秒針の止まり方(終)」
【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス
第36話「秒針の止まり方(終)」
5:30。潮鳴村の海は、ため息を飲み込み終えたように凪いでいた。白く細い波線が、砂の上でひと文字だけ書いては、すぐに消す。「在」の偏のような、左側だけの練習。弓はコートのポケットから砂時計を取り出し、靴の先でなだらかな台座をつくると、そこにそっと置いた。硝子の首は細い。首の中の砂は、まだ上に半分、下に半分。
息を整える。三回・ひと呼吸・二回。
最後の一粒が落ち始める。砂の粒は、落ちる寸前に極小の躊躇を持つ。弓はその躊躇を見逃さないよう、胸の拍をわずかに遅らせる。
落ちた。
——止めない。
砂時計を横倒しにし、落ち切らない砂を、あえて残す。現在形を残す。記者のやり方だ。完了は終了ではない。完了は、凍結にもなる。今ここで凍らせないために、横倒しにする。
背後で、篠目がシャッターを切らない音を鳴らす——つまり、切らない。カウンターの代わりに、彼は指で呼吸の回数を折る。砂ではなく肺で刻む。露光は長く、光源は海。微光が砂の粒にだけ宿り、紙に細い白を置く。
「何回」
弓が問う。
「七。三回・一呼吸・二回・一呼吸・一回」
篠目の答えは、秒の譜面を言葉に直しただけの素っ気なさだが、そこには破壊しない写真の意志がある。彼は今日も、撮らない。
少し離れた場所で、東條が私設ログのノートを膝に広げ、赤い印の蓋を親指で押し上げた。印面が朝の冷気に少し硬い。紙に触れさせず、印を見せるだけにして、太いボールペンで一行。
〈終わりを記さない〉
ただの宣言。だが、宣言は工程を呼ぶ。終わり方を規定するのではなく、終えない方法を共有するための行。「横倒しは合図」——東條は小さく付記し、印の蓋を閉じた。赤は逃げない。
上園は、膝に載せた工程表の最下段を見つめている。昨夜までに「戻し工程記法」の注釈板は立った。A票公的版も運用に乗った。二系統秒は常設化された。最下段の「完了」欄の右側、上園はペン先を止め、罫の中に小さな空白を残す。そして欄外に、継続の注釈を入れた。
〈“灯り不在”の在所記録は随時。本文は現場にあり、紙面は要約。要約は橋。〉
橋は、ここで一本、また一本、静かに増える。
海のほうから、三回・二回。拍はやわらかい。威嚇ではない。帰路の音。
弓は砂時計の横に、祖母の受信連絡カードをひととき置いた。裏面の走り書き。
〈呼ばれんで助かった夜もある〉
その文字は、一晩で薄くなる種類のインクではない。在るの側のインクだ。弓はカードを胸ポケットに戻し、砂時計の位置を半歩だけずらす。倒し方の角度を橋の傾きに合わせる。朝の光が、横倒しの硝子の首に細く入り込む。最初の一粒が、動かぬままに光だけを受け取り、動かずに在るという状態を、現場に置いていく。
◇
午前。社に戻らず、弓は灯りの家へ寄る。最後の整備。最後ではあるが、最終ではない整備。新品ランタンの時刻は昨夜合わせた。だが彼女はもう一度、背面の蓋を外し、21:00:00の角へ軽く触れる。秒が濁らないよう祈りではなく、習慣で触れる。
黒板の中央に貼った宣言文の縮刷は、粉を吸って柔らいだ。上部の古い問いと新しい問いは、白々と並んでいる。
〈名はどこへ行くのか〉
〈どこへ戻るのか〉
弓は二行の間に、白墨で**/をもう一本、水平に引いた。斜ではなく水平**。橋の図面としての**/。
「図面が残れば、建て替えが効く」
独り言に答えるように、窓の外で小さな影が動いた。海野の甥だ。彼は胸の前で三回・ひと呼吸・二回**。笑わない笑顔で、黒板の**/を指差し、持ち込んだ布でそっと磨く。粉がほんの少し舞う。
海野本人は、午前だけの外出許可で、集会所の入り口に立っていた。職員が少し後ろ、甥が少し前。海野は白墨に触れず、黒板の下の注釈を目で追って、うなずくでも首を振るでもなく、立っていた。
立つことが本文**になる瞬間を、弓は何度も見てきた。今日も、そうだ。
外へ出ると、慰霊碑のところで、小さな人だかり。注釈板の周りに、観光ではない目つきの人が五人、六人。A家の女性も、B家の青年もいる。二人の間に、互助会のスーツ姿と、寺の作務衣が立ち、説明の声を出さない。説明は板書に任せ、合掌のタイミングだけを拍で合わせる。
弓は顔を見ない。秒を見る。二名立会の手元に視線を置く。押印の圧の深さが一定か、北東に逃げないか。工程は、目視の技術でもある。
A家は非公開希望のまま、外周の記録を確認して、一歩退いた。B家は碑面の斎/齋を撫で、注釈板に短く礼をして、やはり一歩退いた。二歩の間に、橋が一本、見えないまま置かれた。住職は胸に手を当て、呼ばない供養の説明書の片隅を指で折る。折り目は次の人への道標。
篠目はそこでも撮らない。風に舞った石粉だけを、露光で受ける。紙に残るのは顔ではない。舞い上がって戻る粉の軌跡。戻るの図解。
◇
午後。西九州日報の社会部。静脈のように光る蛍光灯の下で、弓はパソコンの画面に、最後のページの構成を並べた。
冒頭は、砂浜で横倒しにした砂時計。写真ではなく、記述で置く。破壊しない要約の最終例として。
次に、「工程表」の空白。最終欄に残された白と、欄外の注釈。
続けて、「二系統秒」の読み上げ表記の簡略。三回・ひと呼吸・二回の楽譜。
A票公的版の「在所」欄に打たれる**・の小さな点。名の代わりではない。在の座標。
最後に、灯りの家の黒板の一行。
〈名はどこに戻るのか——ここに“在る”〉
句点は置かない。置かないことを設計**する。止めないまま、終える。
デスクが椅子を引いて覗き込み、笑うでも渋るでもなく、ただ短く言う。
「固定するのか。更新欄」
「固定します。【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス——定時の約束を作品の最上段にピン留めします」
「プロモーションみたいだな」
「儀式(ルーチン)です。神秘なしの」
デスクはうなずき、出稿の順を指で二度叩く。「朝・夕・夜。秒がブレないように」
「はい。秒は人で押さえます」
その時、メールクライアントに四通の新着。
上園:〈工程表最終欄:空白を維持。注釈「継続」。〉
東條:〈私設ログ:末尾に“終わりを記さない”を残置。提出時も残置のまま〉
住職:〈“呼ばない供養”の説明書、句読点の位置を修正。句点を少なくしました〉
甥:〈伯母は昼、黒板の前で立っていました。立つのが本文、と言われていた気がします〉
弓は四通の要点だけを破壊しない要約で台割に反映し、返信を短く返す——橋の言葉で。
〈承知。空白は橋です〉
〈承知。残置は在です〉
〈承知。句点は呼吸です〉
〈承知。立つは本文です〉
◇
21:00。夜。灯りの家は、合図を待たずに静かに点いた。新しい橙が、二重ではなく一重で、壁に細い輪郭を描く。古い灯は棚の奥で眠り、背面の紙片はやはり小さく「在所証明済」と言っている。
黒板の中央、誰の名もない。ただ一行、白い字。
〈名はどこに戻るのか——ここに“在る”〉
——の線は、橋の長さだけ伸びている。/ではない、——だ。橋にも種類がある。今夜は水平の橋。
弓は録音機の赤を押し込み、背面の沈みが一段深くなるのを聴いてから、原稿の末尾に指を置いた。
〈忘却は誰の利益か。——“在る”の利益であるように、記す〉
句点は打たない。
カーソルが点滅し続ける。止まらないまま、終える。現在形のまま出す。
篠目は黒板の一行を撮らない。代わりに、呼吸を数える。
「三」
「五」
「七」
東條は、最後の私設ログの最下段に、朝と同じ一行を残す。
〈終わりを記さない〉
上園は工程表の最終欄に空白を残し、欄外の継続に小さな丸を添える。丸は句点ではない。点呼の点。拍の位置。
外から、三回・二回。
波の合図が、今夜は扉の外でなく、胸の中で鳴った。
弓は腕時計の秒針を見た。秒針は、止まらない。止めない。止まらないように、人が押してきた。二名立会/二系統、押印二回、呼吸、母音、黒板、橋。
秒針の止まり方は、一つではない。止めて終えるやり方もある。けれど、彼女は止めないまま、終えるやり方を選んだ。横倒しの砂時計のように、在るを残して次に渡すやり方を。
彼女は原稿を送信し、更新欄のピン留めの表示を最上段で確かめる。
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この文言は、プロモーションではない。儀礼だ。遅い正しさの拍だ。
モニタを閉じる。
夜の空気は穏やかだ。潮の音が三回・二回。
弓は、ほんの少しだけ微笑んだ。
止めないまま、終える
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※ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。最終話「秒針の止まり方」をお届けしました。**“止めないまま、終える”**という現在形の着地まで、あなたの拍(応援)が作品を運んでくれました。面白かった・余韻が残ったと思っていただけたら、フォロー/☆評価/応援ハート/レビューで背中を押していただけると嬉しいです。定時の約束は続きます。次の拍で、また。
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三十路の記者、定時で帰って廃村の怪を暴く 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_
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