第35話「帰路」

【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス


 第35話「帰路」


 昼の灯(ひ)を胸にしまって、夜の灯を整える。段取りは単純、でも順番は厳密だ。集会所の机に新旧ふたつのランタンを並べ、弓は胸の内で三回・ひと呼吸・二回。その拍で指の動きを落ち着かせ、まず古いランタンの背面を外して内部の埃を払う。次に新品のパッキンを検め、秒表示のある小さな液晶の「設定」ボタンを細い爪で押す。

 「二十一時、零分、零秒」

 上園が読み上げ、東條が「私設ログ」へ、篠目が「公的ログ」へという冗談を投げる。役割は逆でも構わない。どちらの秒にも偏りがないことを確かめるのが大事だ。弓は秒の点滅に合わせて、二つのランタンのスイッチを同時に押す。橙が二つ、短・長で呼吸を合わせていき、やがて一つの拍に収束する。

 「継承、確認」

 弓が言うと、篠目は微笑もせずに頷く。彼は笑う時にも顔を写さない。カメラの背で笑う。シャッターは落とさず、露光だけを少し長くして、二つの橙が一致するまでの揺れを紙に招く。


 黒板の前では粉が薄く舞っていた。弓が書いた古い問い——〈名はどこへ行くのか〉——その下に、今日の手で**〈どこへ戻るのか〉が追記される。白墨の腹で/を一筆置き、二つの行の間に橋を架けた。

 「行くと戻る**、どちらも在るの言い換え」

 弓が呟くと、上園が補う。

 「工程では、行くが“仮置き”、戻るが“復帰”。橋は“儀礼的記法”」

 「書いてください。注釈板にも」

 次の場所は、慰霊碑だ。


     ◇


 風の出た広場で、石の粉が光っていた。彫り職の手は迷わず、斎/齋の斜線を一筆で渡す。碑の脇には新しく据えられた注釈板。金属板に黒い文字で、こう記されている。

 〈戻し工程記法:

 **“斎/齋”**は同音異字の重なりを表す接続の線。

 **“相/良”**は名の外周を示す記法。

 “/”は切断ではなく接続。

 彫り入れの秒は二名立会/二系統記録により監査される〉

 簡潔、れど十分だ。神秘なしの儀式は、読み方さえあれば自走する。


 今日の対象は、第二部でいちど戻し切れず保留になっていたB家の名だ。斎/齋の間に、わずかな間(ま)。住職の読経は名を呼ばないまま、音のみを供す。拍の列に、母音が透けて重なる。

 反対側のベンチでは、A家が静かに頭を垂れていた。あの夜、呼ばれないことで救われたと語った女性の横顔は、風の向きを読む鳥みたいだ。彼女は非公開希望を変えない。変えなくていい。外周だけを記し、本文は胸に置く。

 合図はないのに、合掌は揃う。呼ばない合掌。顔を見合わせることなく、同じ拍で手の温度が寄る。

 篠目はここでも撮らない。彼のファインダーの中には、人の顔の代わりに石粉の漂い、指の震え、押印の圧痕、やわらかな橙。行為だけを紙に招く。


 彫り終わり。秒が読み上げられ、二系統の記録が重なる。住職は注釈板に短く一礼し、マイクもいらない声で言う。

 「戻しは記す者の責任。供す者は『呼ばない』を守る」

 上園は注釈板のビスを増し締めしながら、弓に紙束を渡した。市民向け版の戻し工程の案内だ。

 「これで、掲示の工程は一巡。……揺り戻しは、今のところ来ていない」

 「来ても、工程が受け止めます」

 弓は答え、視線をA家とB家の間に置く。ふた組の距離は、同じ集会所で共有できるところまで縮まった。非公開と復帰——別の救いが、いま同じ空間に在る。どちらも救いだと、やっと言える。


     ◇


 午後遅く、弓は社へ戻る途中で、ひとり廃村へ引き返した。灯りの家で、最後の整備をするためだ。

 新品ランタンの「制度灯」への備品登録票に、鉛筆で**・を置き、拍の採譜を挟む。古い灯は棚の奥にしまい、背面に小さく「在所証明済」と書いた紙片を貼る。古いものは役目を終えてなお、本文に触れられる位置へ。

 黒板の前に立つ。〈名はどこへ行くのか〉/〈どこへ戻るのか〉。二行の間に/が一本、静かに横たわっている。相/良の夜、在る/の夜、斎/齋の夜——あの斜線はいつも橋だった。

 弓は胸ポケットから祖母のカードを取り出した。受信連絡カード。裏面の走り書き。

 〈呼ばれんで助かった夜もある〉

 文字の角が丸い。送り主の癖だ。手の温度が残るような気がしたのは、錯覚だと分かっている。でも錯覚は、祈りの入れ物にもなる。

 弓はカードを手帖の奥ポケットへ戻し、静かに目を閉じた。祖母は呼ばれない配慮に救われた。いま、弓は記される救いを増やす方法を、みんなと一緒に編んだ。

 どちらも救いだ。

 その言葉が、目の裏で光**になった。


 気配に振り返ると、海野が立っていた。施設の職員が少し離れた位置で見守り、甥が胸の前で三回・ひと呼吸・二回。海野は黒板に近づき、白墨で点をひとつ、〈戻る〉の右上に置いた。

 〈戻る・〉

 句点のようで、句点でない。海野は弓を見て、指で**/**をなぞる。

 「……」

 声は出ない。それでも弓には分かった。橋は渡した、という意味だ。

 弓はうなずく。

 「橋は残します。渡り方は人それぞれで」


 外に出ると、風は少し冷たくなっていた。波の三回・二回は穏やかで、威嚇の拍には遠い。帰路の音だ。

 車に乗り込み、弓はフロントガラスの潮をワイパーで三回・二回。定時に間に合わせるには少し余裕がある。遅い正しさに必要なだけの余白だ。


     ◇


 海沿いの県道は、今日に限って短く感じた。どこも同じ海なのに、半島の先端から市街へ戻る道は、行きよりも色が薄い。戻る旅は、いつだって色の解像度が下がるのだろうか。いや——たぶん、色は薄いのではなく、線が太いのだ。工程が現実を太くする。

 信号待ちの間、弓は篠目からの新着画像を開いた。石粉の軌跡、押印の圧、二重の橙が重なる前の短いズレ。それは美しいというより、正しいと思う写真だった。

 「正しい写真、という言葉は嫌いだったけど」

 口に出して苦笑し、弓は言い直す。

 「**“破壊しない写真”**だ」

 篠目なら笑わない。代わりに、次の露光の秒を短く変えるだけだろう。


 市街地が近づくと、社屋の看板が風の中に立った。エレベーターの鏡に映る自分の顔を見て、弓は名刺の裏面を確認する。〈相/良〉。斜線には粉がまだ残っていた。橋は消えない。

 社会部のフロアは静かだった。机上の送稿マットに両手を置き、弓は今日の見出しを短く決めた。

 〈帰路——“呼ばれない配慮”と“記される救い”〉

 本文は工程から始める。新品ランタンの時刻合わせ、黒板の追記、注釈板、A家とB家の呼ばない合掌、祖母のカード。顔を出さず、行為だけを可視化する。戻ると在るの、橋の角度だけを変えて見せる。


 上園からメッセージが届く。

 〈“戻し工程記法”の注釈板、追加分の予算が通りました。——橋は増やせます〉

 東條から。

 〈A票公的版、他県でも採用。秒は“現場の根性”じゃなく“現場の基準”になりました〉

 住職から。

 〈“呼ばない供養”の説明書、町外にも配布。句読点の位置を工夫しました〉

 甥から。

 〈伯母は今日、〈戻る・〉の点を置きました〉

 弓は四通に短い返事を打ち、送信を押す。要約は破壊でも免罪でもない。渡す。メールも橋だ。


     ◇


 夕刻。弓はビルの屋上に出た。半島の向こうの空が、橙から群青へ落ちていく。灯りの家の新しい橙は、もう制度の灯になっている。個人の善意では消えない。

 ポケットから祖母のカードをもう一度取り出し、表面の罫を指でなぞる。呼ばれない配慮で救われた夜と、記される救いで戻ってくる昼。その二つが、斜線一本でつながって見えた。

 〈呼ばれんで助かった夜もある〉

 ある、と祖母は書いた。あるは過去形ではない。在るだ。

 弓はカードを手帖にしまい、胸に手を当てる。三回・ひと呼吸・二回。帰路の拍だ。

 帰るは終わるではない。次への始まりだ。36話の、静かな余韻へ渡すために。


     ◇


 夜の社会部。送稿ボタンを押す前に、弓は近況ノートに二行置いた。

 〈灯りの家の最後の整備を終えました。黒板に“どこへ戻るのか”を追記。慰霊碑では“斎/齋”が標準化され、注釈板に“戻し工程記法”。A家は非公開のまま、B家は碑面に復帰。——同じ場で“呼ばない”合掌が揃いました〉

 〈“呼ばれない配慮”と“記される救い”。どちらも救いでした〉

 送稿。秒は二十一時三十分を指していた。橋の上で、拍がひとつ鳴る。弓はモニタを閉じ、静かに席を立つ。帰路の音を聴きに、もう一度外へ出る。三回・ひと呼吸・二回。この拍は、読者とも共有済みだ。


【更新】毎日5:30/17:30/21:00/長崎・廃村伝奇×記者サスペンス

※お読みいただきありがとうございます。『帰路』では、新品ランタンの時刻合わせ、黒板の追記、“斎/齋”の標準化と注釈板、A家の非公開維持とB家の碑面復帰、そして**“呼ばない”合掌を、顔を出さずに工程と秒で描きました。面白かった・続きが気になったと感じていただけたら、フォロー/☆評価/応援ハート/レビューで応援してください。あなたの一押しが、相良弓の定時とこの物語の秒**に、次の拍を刻ませます。

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